(第3回)
≪国民熱狂時代 台湾プロ野球(CPB)誕生前後≫
少年野球世界大会で台湾チームは優勝、準優勝の常連、また、代表チームはアジア大会、オリンピックでメダルを獲得、多くのスター選手を生み、台湾野球は世界にその名をとどろかせた。しかし、同時にそのスター選手たちの大リーグや日本のプロ・社会人野球への流失が続いた。何とかしなくては、と1989年、兄弟飯店を中心に、中華職業棒球聯盟(CPBL)を発足、翌1990年3月、兄弟エレファンツ(ホテル)、統一ライオンズ(小売りチェーン)、味全ドラゴンズ(総合食品)、三商タイガース(飲食業チェーン)の4チームで、ついに台湾プロ野球が開幕した。台湾プロ野球元年、開幕戦は南京東路と敦化北路の角にある中華球場(現 台北アリーナ 台北小巨蛋)でダブルヘッダーが行われた。午後1時に始まった第1試合には日本から王貞治氏が駆け付け、記念すべき第1球、始球式が行われた。4時に第2試合プレイボール。第1試合のチケットが手に入らなかった筆者は、その試合を見に行った。球場は超満員で、観客はセレモニーにも始球式にも試合前練習にも、もちろん試合にも大熱狂、筆者も鳥肌が立つくらい興奮した。まさに台湾野球の黄金期がここにピークを迎えた。
≪暗黒時代 賭博と八百長≫
CPBがスタートした1990年~91年、筆者はちょっとイライラしたことがある。球場に行けないときはテレビで生中継を見るのだが、テレビカメラのクルーがプロ野球の中継に慣れていないようで、例えば、無死ランナー3塁で打者がレフトに大きなフライ、3塁走者はタッチアップ、しかしテレビカメラは、アウトになってベンチに帰る打者を映す。レフトから本塁への送球も、タッチアップしたはずの3塁走者も映さない。次の打者のシーンで得点したことを知る。しかもアナウンサーは何も言わない。あー、本塁のクロスプレー、見たかったなぁ(ため息)・・・。そんなのが結構たくさんあって少しストレスだった。でも、そのうちテレビクルーもアナウンサーも慣れて、中継がうまくなってきた。1996年までは牧歌的な黄金期であった。
CPB選手の年俸は日米韓と比べて低く(参考;2012年のCPBトップ選手年俸は100万元=約375万円)、公営ギャンブルがない台湾で、1996年、八百長事件が起こった。一人30万元(約112万円)の報酬で、暴力団の賭博に手を貸し、八百長試合(黒鷹事件)をやったのだ。その結果、18人が有罪となった(但し収監者は無し)。味全のようにこの事件がきっかけで解散したチームもたくさんあった。2008年には米迪亜ティーレックスが賭博絡みの八百長(黒米事件)で解散、2009年にも賭博が発覚、1996年から2009年までに計5回の八百長事件があり、84名が起訴された。台湾プロ野球の暗黒時代である。当然ファンも離れて行った。かつては1試合平均6000~7000人の観客動員数だったCPBは、一時期観客数が1000人余りまで減り、根本的な立て直しが急がれた。