評者:田中雄大
東南アジア随一の経済都市、シンガポール。英語が公用語として広く使用されている同国だが、国籍保有者のうち約四分の三はいわゆる華人であり、「新華文学(シンガポール華文文学)」と呼ばれる中国語文学も書かれている。例えば翁弦尉「島人」(及川茜訳)は、「絶望に近い渇きの中」でどうしようもなく他者を求めてしまう人々を描いた秀作で、雑誌『東南アジア文学』のHP上で無料で読むことができる(https://sites.google.com/view/sealit/15号)。
また中国語以外にもマレー語やタミル語による創作がなされているが、いずれも基本的にはそれぞれ中国系、マレー系、タミル系の読者によって読まれており、諸言語間での交流はほとんど存在しないという。そうしたなか、様々な側面において覇権的な言語である英語で創作することは、シンガポールにおいて特別な意味を持つことになる(詳しくは宇戸清治・川口健一編『東南アジア文学への招待』段々社、2001年を参照)。
『サヤン、シンガポール』は、1999年に出版された英語の短編小説集である。邦題に含まれる「サヤン(sayang)」とは〈後悔〉〈憐れみ〉〈悲しみ〉〈切望〉〈愛〉を意味するマレー語で、それは「切ない」あるいは「いとしさ」といった感覚に近いものであると、訳者の幸節さんは言う。例えば「対決」という短編では、毎晩つねに灯りの点いている向かいの一室を見つめる「僕」が登場する。そして「僕」は、その部屋の住人が慢性不眠症なのではないかと空想することで微かな慰めを得るのだが、それは「僕」もまた夜更けまで眠れぬ人間だからだ。また「誕生日」のロスミナも、一晩中眠れずにいる。親友の誕生日プレゼントのために必死に貯めた五十ドルを勝手に没収した夫が、呑気に鼾をたてて寝ているためである。「ディスコ」のロバートも、眠れない。ゲイクラブで出会った少年に渡された野球帽が、今もまだ手元にあるからだ。
眠れぬ人々以外にも、夫の遺したビデオカメラで自分の部屋を撮って娘に見せるマイモン(「ビデオ」)、HMVの女子トイレの個室でままならぬ逢瀬を重ねるメイ・リンとミシェル(「個室」)、雨の中で唐突に自分が家庭教師のクリスになったように感じる僕(「傘」)など、本書は「切ない」魅力に満ちた人々で溢れている。
なお、アルフィアン・サアットの第二短編集である『マレー素描集』も、現在日本語で読むことができる(藤井光訳、書肆侃侃房、2021年)。これも英語という特権的言語の恩恵によるものだと思いつつ、それでもサアットの描く登場人物たちを見ていると、普段から居心地の悪さを感じているのは何も自分一人ではないのだという、陳腐で「切ない」安堵を覚えずにはいられないのだ。