2022-03-14 ライフ

深くて長いお付き合い②-日本と台湾の野球―台湾野球の誕生 100年の歩み ―

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(第2回)


≪黎明期 台湾野球の始まり~1945年≫

江戸時代が終わって9年後の1876年、米国でプロ野球が誕生した。大リーグ誕生に遅れること半世紀余り、1934年、日本でもプロ野球が産声を上げた。韓国のプロ野球は1982年、そして台湾のプロ野球が始まったのが1990年。台湾のプロ野球はまだほんの33年の歴史しかないが、実は初めて台湾に野球が入ってきたのは日本統治時代の始まりと同時の1895年、今から100年以上も前である。当初は日本人銀行員や教員などが中心に、台湾現地の人と一緒に草野球を楽しんでいた。本格的な野球チームは1906年に結成された台湾総督府中学校棒球隊で、今の台北市立建国高級中学の野球部である。現在この高校は全国トップの進学校となっており、入試偏差値は70以上。野球部の練習は緩くも厳しくもなく、心身ともに健全な青年の育成を目的としているが、1940年までは甲子園に5回も出場している強豪校であった。建国高校以外にも、台北商(現 国立台北商業技術学院)、台北工(現 国立台北科技大学)、嘉義農林(現 嘉義大学)などが強豪校で、中でも特記すべきは2014年に映画化された「KANO」こと嘉義農林高校である。日本人、台湾人、原住民の混合チームで、1931年の甲子園大会では準優勝した。このように台湾では戦前までは高校野球を中心に大いに盛り上がりを見せていた。


≪台湾野球の全盛期 終戦~プロ野球への機運の高まり≫

終戦とともに日本統治時代が終わり、台湾が中華民国に返還されてからは、主に社会人野球が盛んになった。1949年中華民国野球協会が設立され、合作金庫や台湾電力、国軍などが社会人野球チームを作った。1969年、少年野球の世界大会で台湾チームは優勝している。以後20世紀が終わるまでに台湾の少年野球は、世界大会で優勝7回、準優勝22回、また、1983年には台湾代表チームがアジア大会で3位、翌1984年には郭泰源などの活躍でロサンゼルス五輪銅メダル、1992年バルセロナ五輪では準決勝で日本を破って銀メダルを獲得、台湾野球は全盛期を迎えた。

このころ、町の水餃子屋さんや一膳めし屋さん、空港やバスターミナルなどで日本vs台湾の野球の試合があると、テレビで生中継され、多くの人がテレビ観戦し、選手のプレーに一喜一憂した。店で食事している筆者が日本人だと気づくと、店内はさらに盛り上がり、最初はアウェーの恐怖を感じたが、そのうち、日本が勝ったら、さすが日本は強いね、とか、俺たちは日本に勝つのが夢なんだ、などと言い、台湾が勝ったら、どうだ、李居明はすごいだろ、とか、郭泰源の球は打てないだろ、とか言ってどんちゃん騒ぎ。どっちが勝っても負けても相手に対するリスペクトがあり、とても楽しかったことを思い出す。

しかし、その頃から、郭泰源(元西武)、莊勝雄(元千葉ロッテ)、郭源治(元中日)、呂明賜(元巨人)など有力選手の海外流出がずっと続き、歯止めをかけるためにも台湾プロ野球の発足が急がれた。

第2回終わり

(次回は≪台湾プロ野球の誕生と低迷期≫についてレポートします)

 

第1回はこちら→深くて長いお付き合い-日本と台湾の野球 

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