2021-12-09 ライフ

日本ブランドはいかにしてマレーシア人の心の奥に入り込んだのか

注目ポイント

マレーシア人と日本ブランド製品とのつながりは強く、エアコン、扇風機、冷蔵庫、電子レンジ、給湯器、テレビ、洗濯機、電気ポット、アイロン、炊飯器、オフィス用文房具、プリンター、コピー機、ファックス、電卓、プロジェクター、自動車、バイクなど、どこでも「日本」ブランドを見かけることができる。

車、バイク、電化製品など生活に浸透

 

まずはマレーシアでよく見かける日本車を見てみると、最も売れている準国産車(Perodua、ダイハツとの合弁)を除き、乗用車モデルの総販売台数において日本車が上位に並んでいる。ホンダ、トヨタ、日産、マツダ、スバル、三菱の順だ。ホンダはなんと国産車プロトン(Proton)より上位の2位につけている。

 

ホンダの進出は1958年にまでさかのぼる。ペナンの中国系ビジネスマン駱文秀(Loh Boon Siew)氏が日本を旅行した時、初めてホンダのバイクと出会い、それをマレーシアに持ち帰ったことに始まる。その後、マレーシアで最も人気の高いバイクブランドにまで成長した。駱文秀は当時マレーシアで唯一のホンダバイクのディーラーであった。1969年、駱文秀は「嘉摩多(Kah Motor)」を設立し、販売ラインナップにホンダの自動車を加え、国内唯一のホンダ自動車ディーラーとなった。

 

2000年になってからようやく、日本の本田技研工業、多元資源工業(DRB-ハイコム)、駱文秀氏の「東方実業」との合弁によってホンダ・マレーシアが設立された。「東方実業」の株式はたった15%のみだったことから、嘉摩多(Kah Motor)はもはやホンダ自動車唯一の代理店ではなくなった。ホンダバイクは以前と変わらず「文秀ホンダ」が生産しているが、ホンダ自動車は「ホンダ・マレーシア」のマラッカ工場で生産されるようになった。

 

日産の進出にも、華人が関係している。1957年、タクシー運転手だった陳月火(Tan Yuet Foh)氏が日産自動車から代理店の権利を取得し、兄の陳金火氏と共同で「タンチョン・モーター(Tan Chong Motor)」を設立した。陳兄弟は日産ブランドのダットサンの輸入を開始し、またクランバレー地区に自社の自動車生産ラインを建設した。ダットサンは1980年代に国産車が正式に生産されるまで、マレーシアで最も売れた自動車ブランドだった。現在でもなお「タンチョン・モーター」は日産自動車の代理店である。
 

トヨタの進出は、まず代理店によって輸入され、現地工場を創設して生産を開始したことからスタートしている。1980年代、トヨタ代理店の「合順(UMW)」と日本の「トヨタ」によって、合弁会社「UMWトヨタ」が設立された。傘下にM&Aによる自動車組立工場「アッセンブリー・サービス(Assembly Services)」があり、セランゴール州にあるトヨタの生産ラインを支えている。「UMW」はもともとシンガポールの自動車整備士、謝羽書(Chia Yee Soh)氏によって設立され、その後、息子の謝英福(Eric Chia)氏が、マレーシアにおけるトヨタ自動車ディーラーとして発展させた。
 

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