注目ポイント
自らを「愛日家」という造語で定義し、多くの日本人に、日本語世代の台湾人男性の典型として記憶された蔡焜燦(さい・こんさん)氏(1927~2017)。今年7月17日には七回忌を迎えた。日台交流の担い手が世代交代し、交流現場から「老台北」の面影が薄れゆくなか、かつて日台交流ツアーの最前線などに身を置き、生前の蔡氏と深い親交があった筆者が「老台北」死去後の出来事や、その実弟、蔡焜霖氏との別れなどを振り返る。
今も耳に残る最後の会話
実は蔡焜燦先生が亡くなられる数日前、私は先生からの最後となる電話を受け取っておりました。
このころには蔡先生とのお付き合いも長くなっていたので、恒例の「口頭試問」にもどうにかこうにか回答できるようになっており、先生からそれなりに合格点をもらえるようになっていました。

このときも口頭試問の関門を突破したのですが、ふと思い立ったのが「逆口頭試問」でした。
日本陸軍の作戦の無謀さが目立ったインパール作戦(1944年)で、逆に見事な撤退戦を指揮した元陸軍中将、宮崎繁三郎(1892-1965)のことを念頭に、先生に「逆口頭試問」を仕向けたところ、あの博覧強記の老台北から「いやぁ、よくわからないなぁ」という言葉を引き出し、一本取ることができたのです!
気が良くなった私は続けざまに「◯月◯日は〇〇の記念日ですが、ではその翌日はなんの日でしょう?」と聞いてみました。またしても「わからないなぁ」と。
「で、拓朗さん、その日はいったいなんの日なんだい?」と先生に聞かれたので、「先生、実はその日は私の誕生日なんです」と答えたところ、実に愉快そうな声で「あ、やられた~!今度台湾に来たら一杯ごちそうだ!」と、まさに呵々大笑されていたでした。
他愛もない話ですが、私も最初のころのガチガチだった緊張が解けて、軽口が交わせる間柄になったことが素直にうれしく、楽しい時間でした。
そのあとで先生は、「しかし拓朗さん。拓朗さんとの縁も不思議なものだねぇ」と唐突に言われました。私も先生との最初の出会いを思い出し「そうですね先生。こういうのを合縁奇縁というのかもしれませんね」と返すと、先生は電話の最後にこうおっしゃいました。
「本当に拓朗さんに出会えてよかったよ!本当にありがとう!」
これが私の耳に残る蔡焜燦先生の最後の言葉になったのでした。

死線さまよいあわや「再会」かと思いきや
「出会えてよかった」「ありがとう」…
それは他愛ないやりとりの中の、何気ない会話として出てきただけなのかもしれませんが、その後のことを思うと、まるで芝居か小説のように出来過ぎた話で、私には偶然とは思えませんでした。できることならそれっきりにはなってほしくはなかった。もっともっと、いろんなお話をうかがいたかった…。
ただ蔡焜燦先生は、はからずも最後の言葉としては、これ以上ない心のこもったメッセージを私に残してくださいました。耳のなかに残っているこの言葉を折に触れ思い出すと、今でも胸が熱くなり、同時に先生への感謝で胸が一杯になります。