注目ポイント
今から約百年前の大稻埕は、台北の主要な商業地域として発展した。河港交易が盛んになることで周辺には洋行や在外公館が次々と建ち、富裕層や名の知れた人々も集まってきて、絶えず人や車が行き交っていた。迪化街は米や乾物、漢方薬、布を扱う問屋が軒を並べ、商業が盛んとなり、往時の賑やかな大稻埕は、まさにモダンと豊かさの象徴といえる。 その後、年月が経った今日でもその面影は依然として色褪せることがない。1930年代の迪化街の中元節の繁華な様子を、画家の郭雪湖(1908-2012)は、膠彩画による作品『南街殷賑』で繊細に描き出している。多くの美術家や文学者、歴史研究家は、今でも彼の作品を熱心に研究していて、街の光景や店の看板、人物、売り物といった描写は、その時代の歴史と趣を如実に映し出している。
文・蘇晨瑜 写真・林格立 翻訳・風間 三智子

新旧の融合する大稻埕
『南街殷賑』を今日の迪化街と比べてみると、バロック式の洋館内に流行のブランドショップが入っていたり、老舗商店が文化カフェと調和する等、大稻埕は今でも新旧の混ざり合う融合的かつ開放的な姿を残していて、昔と変わりないように感じる。
「私がここに来たときは、人の賑わいもなかったし、この辺りはすべて倉庫でした。」實踐大学メディアデザイン学科の講師・呉勝文は、2006年に自らが営む会社を大稻埕に移した、いわゆる新住民の一人である。当時、迪化街ではどこも数万元で倉庫を借りることができた。「誰しも迪化街はもう廃れたと思いました。」しかし、気づけば今では、借りるのに何倍もかかるという。呉勝文の夫人は大稻埕の出身で、地元商店の人たちとは顔なじみだったため、迪化街を案内してくれて、貴重な話を聞くことができた。

『南街殷賑』から歴史を読む
朝9時。迪化街の店はもうほとんど開いている。旧世代の人たちは、奮闘努力してここに家を構え、多くの富を築いてきた。迪化街の富といえば、ちょうど私たちの目の前をマセラティの最高級スポーツカーが通り過ぎて行く。迪化街ではよく見かける光景だ。過去の迪化街を顧みると、『南街殷賑』には色とりどりの看板が林立し、旗が揺らめき、通りが人で賑わう様子は、今と似たような豊かさを表している。現在では、描かれている店の多くが姿を変えてしまったものの、台北霞海城隍廟と乾元蔘藥行の2軒だけは今も形を残し続けている。
乾元蔘藥行は迪化街71号にあり、『南街殷賑』の中では「乾元元丹本舗」という看板で描かれている。乾元蔘藥行は、台湾で最初にタイガーバームの販売をした店で、当時はタイガーバームを買って永樂座に行くと劇を観ることができたという。既にこの時代から、他業者と合作するメリットを活かして新たなビジネスチャンスを生み出していたのだ。
また、霞海城隍廟は朝早くから多くの参拝客で賑わい、『南街殷賑』の中の光景と変わらない。『南街殷賑』が描かれたのは、ちょうど中元節の時期で、廟では、たくさんの線香が焚かれ、通りは参拝客と買い物客で溢れている。道の両側には「中元大賣出(中元大売出し)」「中元贈答品(中元ギフト)」「中元大減價賣出(中元大セール)」といった旗が掲げられ、現在と近い雰囲気であることがうかがえる。

中元節の賑わい
迪化街で麺線とビーフンの店を営む江志仁は、大勢の人で賑わった60年前の中元節の記憶を語ってくれた。「あの頃の人たちは、よく道端宴会を設けてお客さんにもてなしをしてくれて、多く集まれば集まるほど面子が立ちました」また、中元節以外にも、地元の人が重視している行事がある。5月13日に行われる北台湾最大の巡行で有名な城隍爺の生誕祭だ。創業百年の仏具・刺繍店のオーナーである童振熙は、「城隍爺の生誕祭前夜に行う夜間巡行は、苗栗の白沙屯媽祖の巡礼よりも活気がありました」と昔を振り返る。しかし近年では、迪化街に祀られている神様の並び順に変化があり、廟の中でも月下老人という神様のほうが今は城隍爺よりも人気があるようだ。月下老人は、私たちには見えない赤い糸をもっていて、人と人を結ぶ縁結びの神様である。「七夕やバレンタインデーになると、男性は南京西路側に、女性は民生西路側に集まってくるんですよ」と近所のおかみさんが笑いながら話してくれた。