注目ポイント
日清戦争(1894~95)の結果、下関条約によって台湾は1945年まで約半世紀の間、日本の統治下に置かれた。戦前から戦後にかけて台湾医学の先駆者となった杜聡明氏の三男として生まれ、米国で世界的な毒性学の権威となった杜祖健(アンソニー・トゥ= Anthony Tu)氏。日本の松本サリン事件解決にも協力した台湾生まれ、米国在住の化学者が、自身とロシアとのかかわりを振り返る。
学会の場で何度も訪露誘われ
私がロシア人と初めて接触したのは1980年代の旧ソビエト連邦時代のことで、マレーシアで開かれた化学学会であった。
このとき接触した相手はウラジオストクの極東研究所の所長で、「機会があればロシアにいらっしゃい」という。
当時は日本人がウラジオストクで港の近くでうっかり写真を撮ってしまい、十数年も拘束される問題が起きていたのを私は知っていた。
それゆえに私は、「ウラジオストクはロシアの極東の軍港で、外国人は立ち入り禁止ときいているが…」といぶかしむと、彼は「杜先生は別ですよ」という。理由は後で述べるが私はあえてロシアをたずねようとは思わなかった。
それから何年もたった1990年代初頭に私はインドで開かれた学会に出席した。
その時もロシアのグリーシン博士が、「機会があったらロシアにいらっしゃい」という。私は単なるリップサービスだろうと思って、特に彼と深くかかわることもなかった。しかし米国に帰ってから彼の蜘蛛(クモ)毒に関する論文を読むとなかなか立派であった。
露研究者を逆に学会に招待
この当時私はワシントンD.C.で開かれる米国化学学会で毒性学のシンポジウムの責任者であったので、彼の立派なクモ毒の論文のことが強く印象に残り、私は講演者のひとりとしてグリーシン氏を招待することにした。彼に意向を打診すると、彼は「喜んで受理する」という返事をくれた。
私はワシントンD.C.ではヒルトンホテルに滞在した。そこに滞在中、突然モスクワから電話があった。グリーシン氏からの電話で、「ビザがなかなか発給されないので手伝ってほしい」というのだ。
どうして私がワシントンD.C.のヒルトンホテルに泊まっているのがわかるのか?ちょっと不思議に思いながらも私は国務省に電話して便宜をはかってくれるよう依頼した。
その結果、彼は無事にビザの発給を受けて無事ワシントンD.C.に来ることができた。その際彼はオクラホマ州立大学のクモ毒研究講座などにも招かれて講演を行った。

これが縁になり、グリーシン氏は帰国後しばらくして私にテレックスを送ってきた。
そこには短い文で次のように書いてあった。「ソ連政府は貴兄を私の研究所に招待します。このテレックスの電話番号を世界のいずれかのソ連大使館または領事館に示せば、ビザの発給が受けられます」。
米ソは冷戦で長らく世界を二分して対峙した関係。私は「台湾出身で米国在住の化学者が簡単にロシアに行っても大丈夫なのか?」と心中不安に思いつつも、結局は学術的興味が優って、訪露を決めた。招待の期日にしたがい当時の米大手航空会社パンアメリカン機に搭乗してドイツ・フランクフルト経由でモスクワに到着した。