注目ポイント
社會が農業中心だった時代を経験した年長者たちは「麺より米の方が腹持ちがする」と言う。「蓼食う虫も好き好き」と言うように「胃納(中国伝統医療の言う「胃が受け付ける」という機能。以下「食欲」とする)」の一面をついている。人は、子供の頃から食べて来たものに親しみ、食の嗜好や習慣を育む。 台湾人の「食欲」はどのように育まれたのか? その特徴は?その謎を解くべく、歴史作家の曹銘宗と中央研究院台湾史研究所・非常勤研究員の翁佳音がタッグを組み、台湾の食生活の変遷を遡る。
文・蘇俐穎 写真・莊坤儒 翻訳・齋藤齊
曹銘宗は、誰もが小吃料理文化へ一家言を持つ基隆(キールン)に生まれた。ミシュランガイドで星の付いたホテルで出される高級料理と街の小吃店で得られる楽しみに優劣をつけるべきではないと、曹は言う。
小吃は、日常的な料理ではない。大衆的で、素朴で、心情に直結し、台湾人の心の底にある郷土愛に基づき、海外からの旅行者にとっても台湾イメージそのものだ。

小吃の背後にある移民文化
情報サイト「CNN Travel」では、台湾小吃として40レシピを取り上げ、「台湾の小吃の豊富さには圧倒される」と言い添えている。シンガポールの「聯合早報」は、「小吃おそるべし」と題うって特集を組み、これこそが「台湾のソフトパワー」の面目躍如だと紹介した。
台湾の定番とされる小吃の多くは、福建省や広東省からの初期の移民が台湾に持ち込んだものだ。漢族の初期移民たちは、いわゆる「三刀(調理人、床屋、仕立て屋)」で家族を養ったため、自然と中国各地のありとあらゆる食が台湾で一堂に会した。
人が流れれば金の流れもそれに続く。人が集まる街や、市場、駅や港が小吃店創業の第一選択となった。基隆の奠濟宮の廟前市場は、清代に始まり、着実に発展を遂げ、今日の盛況に至る。
基隆人の誰もが悩むように、逸品揃いの選択肢から一つ選びだすのは至難の業だ。地元を知り尽くした曹には、お気に入りがあるし、フィールドワークでインタビューを繰り返してきた事で、小吃店の暖簾分けの経緯から流行り廃りまで知り尽くしている。
観光客にとっての美食の殿堂は、曹からすれば、様々なエスニシティと文化が合流する場だ。基隆は、大航海時代には流通のハブ港として、日本統治時代には台湾の玄関口として、さまざまなエスニシティが行き来した。その多くは台湾を去り、漢人が残った。歴史は忘れられても、食の記憶は消し去ることはできない。

歴代移民と地元物産の交流
廟前夜市の食の源流は、基隆人の人口構成と同じく、福州、泉州、漳州の三大系列からなる。更に、日本や米国など海外の影響も見られる。「基隆の小吃は、歴代の各エスニシティの移民が地元の物産と出会ったことで作り上げられました」と曹は言う。
曹は、基隆でよく食べられている福州系の紅糟[アンツアゥ:以下、〔〕内は台湾語の発音]」料理を例に挙げて説明する。紅い米麹の甘みを帯びた「紅糟」は、台湾ではしばしば「紅燒[アンシウ:醤油ベースのあんかけ]」と混同されるが、福州人がよく使う調味料・天然色素である。廟前市場では、台湾式紅糟鰻がある。台湾で発明された肉圓[バーワン:豚ひき肉をデンプン粉で包んだ団子]も、紅糟で色付けがされている。