注目ポイント
大航海時代から世界に知られてきた島--台湾は多様なエスニックを背景とし、豊かな物語に満ちている。前世紀の末から「台湾学」が盛んになり、多くの台湾人が研究を進めている。
こうして国家公園や林務局から次々と調査依頼が入るようになった。
だが、まとめた報告書は一般の人々にはわかりにくい表現が多いため、2010年、徐如林と楊南郡はそれまでの調査報告をルポルタージュ形式にまとめ直し、『大分・塔馬荷:布農(ブヌン)抗日双城記』『合歓越嶺道:太魯閣戦争与天険之路』『能高越嶺道:穿越時空之旅』『浸水営古道:一条走過五百年的路』『霞喀羅古道:楓火与緑金的故事』を出版した。
古道について語る徐如林の話を聞いていると、彼女の頭の中には台湾の山脈の姿がすべて入っていて、踏査を蓄積していくことで台湾を理解していったことがうかがえる。「地理は歴史の舞台です。舞台に歩み入ってこそ、歴史の真相を探索できます」と楊南郡は語っている。

歴史の現場を訪ねる
歴史書で三大理蕃事件――大分事件、霧社事件、太魯閣戦争を読んだことがあっても、現場を訪れて、その地理的な脈絡を理解しなければ、真の歴史を知ることはできないと徐如林は言う。歴史は、人、事、時、地だけで分かるものではなく、葛藤と矛盾、選択と譲歩に満ち、そこには人間の欲や部族の利益、集落の尊厳など、複合的な要素が絡み合っているのである。
「霧社群の莫那・魯道(モーナ・ルダオ)は、初期には彼と同じセデック族の道沢(Tauda)群と托洛庫(Truku)群を日本人が攻撃するのに協力しました。彼らは地理的に近く、土地と利益の面で衝突していたため、外部の力を借りて近隣の社を牽制し、己の勢力範囲を拡大しようと考えたのです。これには根拠となる脈絡があります」と徐如林は語る。
学生たちを率いて関山古道を歩くとき、徐如林は必ず荖濃渓上流にある日本統治時代の中之関駐在所を訪ねる。「かつてブヌン族の抗日三傑の一人と呼ばれた拉荷阿雷(Dahu Ali)は、ここから自分たちの住む塔馬荷(Tamahu)集落を望み、日本人は神のような望遠鏡を持っていることに驚きました。その時に、いつか日本人と和解しなければ未来はないと感じたのです」と言う。
楊南郡は76歳の時に日本の民族学者である移川子之蔵の著書『台湾高砂族系統所属の研究』を翻訳した。「この本の難しさは言葉ではなく、台湾の地理への理解です。頭目が語る集落移転の道がどの稜線や谷を通ったのか、集落の猟区の区分がどの稜線や河川を境界としていたのか、また、なぜある集落とは同盟関係を結び、ある集落とは敵対していたのかなど、台湾の高山エリアへの全面的な知識がなければ、これらの貴重な内容を理解することはできません」
