注目ポイント
自らを「愛日家」という造語で定義し、多くの日本人に、台湾の日本語世代の男性の典型として記憶された蔡焜燦氏(1927~2017)。今年7月17日は、早くもその七回忌だ。日台交流の担い手が世代交代し、「老台北」の面影が薄れゆくなか、かつて日台交流ツアーの最前線などに身を置き、生前深い親交があった筆者が、「老台北」の横顔を振り返る。
「老台北」の名にふさわしい素顔
すでに何度か触れましたが、「竜馬がゆく」や「燃えよ剣」などの代表作で知られる国民的作家、司馬遼太郎の「街道をゆく40 台湾紀行」(1994年、朝日新聞社)で「老台北」として紹介された蔡焜燦先生ですが、これは司馬氏のユーモアあふれる造語です。
同書の中に「老台北」という一章を設け、その由来に触れていますが、中華人民共和国の成立以前の北京に何世代も住み続け、上流の文化を身につけた知識階層をさす「老北京」という言葉があるそうですが、まさにそれをもじった表現なのです。
わが蔡焜燦先生が、実際には台北の生まれではない(台中の清水出身)ことを承知のうえで、しかし台湾の典型的な一時代の文化を感じさせる存在だとして、あえて「老台北」と呼ばれたのでした。
このエピソードからも類推がつくと思いますが、蔡先生の博覧強記ぶりは突出しておられました。実際にそれに接したことがある方々は、相当びっくりされたことと思います。
台湾の文化は当然としても、台湾ではすでに前時代の文化となっているはず日本文化についても非常に詳しいのです。
もちろん日本統治時代の台湾で生まれ、日本の教育を受けたから…ということに起因するのでしょうが、単にそれだけでは説明がつかないほどに、物知りで、かつ訳知りでもありした。
以下、蔡焜燦先生の博覧強記ぶりの一端をご紹介しましょう。
子規の絶筆三句をスラスラと…
司馬遼太郎が正岡子規という明治の俳人を愛したことは、代表作「坂の上の雲」で主人公のひとりに設定したことや、「ひとびとの跫音」で子規の妹・律の養子となり、子規の死後に正岡家を継いだ正岡忠三郎を取り上げたことでも明白ですが、その子規が若くして他界する直前に詠んだ「絶筆三句」を、「街道をゆく」の取材のために台湾に滞在だった司馬氏がふと口にしたことがあったそうです。
のちに蔡先生と親しい知人を介して聞いたところによると、司馬氏が一句目の上の句「糸瓜(へちま)咲(さい)て…」と諳んじはじめた段階で、すぐさまガイド役として隣にいた蔡先生が、「痰(たん)のつまりし仏かな」と、中の句下の句を諳んじてみせたというのです。
司馬氏は意趣を感じてか、続けて残りの二句も「痰一斗…」「をととひの…」と上の句だけを口にしましたが、そのつど蔡先生は「糸瓜(へちま)の水も間にあはず」「へちまの水も取らざりき」と中の句下の句をスラスラ諳んじてみせて、司馬氏を喜ばせました。
他にもあります。
今の若い日本人が知らないような文部省唱歌を多数ご存知だったこともそうですし、また蔡先生ご自身が通われた郷里の母校「清水公学校」(現清水国民小学)で使用された本で、先生が晩年に自費で復刻された約550ページに及ぶ「綜合教育読本」というものがありますが、この本には清水公学校で使われた教育レコードの内容などが記されておりました。蔡先生はこの分厚い本の、どのページでも諳んじることが出来ました。
