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台湾の游錫堃(ゆうしゃくこん)立法院長(国会議長)が4日、台湾からフェリーで沖縄県与那国島を訪問した。専門家は現代の東アジアの安全保障に対応するため、双方は観光産業を相互に発展させる他、台湾は助け合いの決意を表明すべきだとの考えを示している。

(宜蘭中央社)游錫堃(ゆうしゃくこん)立法院長(国会議長)が4日、台湾からフェリーで沖縄県与那国島を訪問した。専門家は現代の東アジアの安全保障に対応するため、双方は観光産業を相互に発展させる他、台湾は助け合いの決意を表明すべきだとの考えを示している。
日本最西端の与那国島と台湾の北東部に位置する宜蘭県蘇澳は直線距離で111キロしか離れていない。だが国境の関係で現在直行便は運航できず、もし台湾から与那国島を訪れるならば、まず桃園空港から那覇に飛び、それから石垣島を経由する必要がある。飛行距離は1000キロを超える。
沖縄と与那国島の民族誌を研究する中央研究院民族学研究所の黄智慧助研究員(アシスタント・リサーチ・フェロー)は、第2次世界大戦前、与那国島の漁師は早朝に久部良から出港し、途中で魚を捕まえてから夕方、蘇澳で水揚げしていた。そして夜に蘇澳港を出港し、再び漁を行い、翌朝久部良港で水揚げをしていたのだと説明する。与那国島のカツオ工場と養豚場の主な輸出先も台湾で、生計はほぼ台湾市場に支えられていた。台湾で働く島民からの送金も大量にあり、島内で流通する台湾の貨幣は日本の貨幣よりも多かった。
当時は島民が国に納める税金も台湾の貨幣で支払うことができたため、島内の役場の金庫は常に台湾の貨幣でいっぱいだった。役場が税金を県に納める際に役場の職員は商店を駆け回って日本の貨幣と交換していた。黄氏は、戦前の与那国島の産業と経済はほぼ台湾の経済圏に含まれていたと指摘する。
日本統治時代には与那国島と台湾を直接結ぶ路線は常態で、人々の往来は当たり前だった。だが第2次大戦後、日本による台湾統治の終了によって国境が形成されたのに加え、1972年には国交が断絶し、双方の人々は往来ができなくなった。
そんな中でも与那国町は台湾との友好的な関係を取り戻そうと努力を続け、1982年には東部・花蓮市と姉妹都市提携を締結。2005年には「自立へのビジョン」を策定し、国際交流を通じた地域活性化と人づくりなどを政策目標として掲げた。2006年度には花蓮市との直接航行などを求めて特区を申請した。だがこれは認められておらず、地政学的要衝に位置する与那国島は東シナ海における中国の軍事力の高まりといったさらに大きな課題に直面している。
2016年、与那国島には陸上自衛隊の駐屯地が開設された。島民の中には、台湾有事が起これば島が戦争に巻き込まれるのではないかと懸念する人もいると黄氏は明かす。