注目ポイント
1982年、マレーシアのマハティール首相が提言した「ルックイースト政策」と時を同じくして、日本の経営モデルや働き方の導入、および日本企業からのマレーシアへの投資が促進され、マレーシア国民の資質と製品の品質が改善された。マハティール首相は「日本に留学生を派遣する」、「産業提携を促進する」という2つの方法でこの政策を展開した。「ルックイースト政策」は37年間に及んだが、得るものもあれば失うものもあった。
著名な時事評論家である孫和声氏は、政治大学の国際貿易学科を卒業後、成功への道を学ぶため日本に渡った。彼は学んだ知識を応用してマレーシアの政治経済分野でさまざまな提言をし、《尷尬的大馬経済(困惑するマレーシア経済)》、《馬来西亜国情一把抓(一つかみのマレーシア情勢)》などの評論集を出版した。
早稲田大学で修士号を取得した黄明来氏は、日本の自民党とマレーシアの統一マレー国民組織の一党優位制を比較研究した。この研究により、日本とマレーシアの比較政治学分野におけるギャップが埋められた。
「ルックイースト政策」の2つ目の要素は、日本とマレーシア両国の産業連携の推進である。その中で最大の提携プロジェクトだったのは、1983年~1985年にプロトン(Proton)と三菱自動車が現地で初めて生産した国産車「プロトン・サガ(Proton Saga)」である。プロトン・サガは三菱自動車の有名な3代目ランサー(Lancer)の技術をベースとし、「国産車」として製造された。

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その後の新型車でも、日本の三菱の技術でマレーシアのプロトンが製造するという同様の提携モデルが採用された。例えば、プロトン・ウィラ(Proton Wira)は三菱4代目、プロトン・ペルダナ(Proton Perdana)は7代目エテルナ(Eterna:現ギャラン)、プロトン・ワジャ(Proton Waja)はカリスマ(Carisma)をベースとした車種である。この4モデルはプロトンで最も歴史が長く、また最も有名な国産セダンとなっている。
日本とマレーシアの自動車産業における2つ目の提携プロジェクトは、1992年~1994年にプロドゥア(Perodua)とダイハツが現地で初めて生産した国産の小型ハッチバック車「プロドゥア・カンチル(Perodua Kancil)」である。プロドゥア・カンチルは、ダイハツ・ミラ(Mira L200)をベースに製造されたモデルである。
プロドゥアはその後もルサ(Rusa:ダイハツ8代目ハイゼット小型バン)、クンバラ(Kembara:ダイハツ・テリオス初代SUV)、クリサ(Kelisa:ダイハツ・ミラ L700)、販売台数トップのマイヴィ(Myvi:ダイハツ・シリオン)など、ダイハツのOEM車をリリースした。
プロトンとプロドゥアの提携先は、三菱とダイハツであったが、プロトンは国産車のイメージを体現させるべく、独自の技術開発の必要性を常に強調していた。プロドゥアはOEM車としての性質をもった国産車を製造しており、特に技術開発を求めず、日本の大手メーカーの技術を「国産車」に直接応用した。