2021-11-30 政治・国際

日本を師と仰ぐマレーシアの「ルックイースト(東から学ぶ)政策」はなぜ失敗したのか ?

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注目ポイント

1982年、マレーシアのマハティール首相が提言した「ルックイースト政策」と時を同じくして、日本の経営モデルや働き方の導入、および日本企業からのマレーシアへの投資が促進され、マレーシア国民の資質と製品の品質が改善された。マハティール首相は「日本に留学生を派遣する」、「産業提携を促進する」という2つの方法でこの政策を展開した。「ルックイースト政策」は37年間に及んだが、得るものもあれば失うものもあった。

洋の東西を問わず、日本は高度な科学技術をもち、国民の資質も高度に発達している国だと考えられている。1979年、ハーバード大学のエズラ・ヴォーゲル教授は、日本の経済と社会を考察した《ジャパン アズ ナンバーワン: アメリカへの教訓》を執筆し、日本が成功した理由の説明を試みた。そして、アメリカ人は日本から社会の強み、すなわち責任感のある官僚制、会社への高い忠誠度、高い教育水準、低い犯罪率を学ぶべきだと考えた。

 

マレーシア人学生が日本に留学する費用は「国費」と「私費」の2種類に分けられる。在マレーシア日本国大使館の1984年~2017年の資料によると、マレーシア政府は合計7,896名の学生を日本に留学させており、そのうち4,086名が学位取得者、2084名が専門学校生、207名が大学院生となっている。育成プログラムには合計8,735名が参加し、マレーシアの工学、医学、ビジネス、学術に携わる数多くの人材を育成している。

 

マハティール首相自身も1982年に息子のムクリズ・マハティール(Mukhriz Mahathir)日本に留学させ、上智大学で経営学を学ばせた。日本語に精通していた彼は、マレーシアの東京三菱UFJ銀行(当時)で勤務したこともあった。同1982年、マラヤ大学(University Malaya)は、「ルックイースト政策」に従い、日本の大学へ入学するための準備クラスを設立した。

 

2年間の準備クラスでは、学生に日本語と理工学の基礎を教えている。当時マラヤ大学の校長だったウンク・A・アジズ(Ungku Abdul Aziz)氏は、まさに日本に留学したマレー人(ムラユ)の先駆けであった。彼は1964年に早稲田大学で博士号を取得した後、マレーシアに戻り、マラヤ大学の経済学部で教鞭をとった。

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私費留学生は、はじめに日本で日本語学校に通うか、帝京マレーシア日語学院や陸培春留日センターなど、本国の語学学校で日本語を学んでから留学試験に参加する。2校の語学学校はどちらも90年代に設立され、「ルックイースト政策」に合わせた民間機関による日本留学の支援が反映されている。

 

また、中華系マレーシア人のグループにも、日本の政治経済に関する問題を深く究めている民間学者が2名いる。彼らはいずれも80年代に日本に留学し、帰国後は中国語のメディアに従事して記事を提供するなどしており、鋭い観点と洞察力をもっている。

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