注目ポイント
「台湾の気象条件は酒造りに適していない」という説を払拭する。2020年、中福醸造は日本統治時代の古代米品種「吉野一号」を使った酒「吉野吟醸」を発売。 馬何增氏は「今、皆さんが見ているのは中福酒造19年間の努力の積み重ねの成果だ」と話す。
台湾も日本に負けず劣らず日本酒が大好きで、最近は日本酒専門店も増えておりスーパーの棚には、地元ブランドの吟醸酒や大吟醸酒が並び始め、輸入品に比べればかなり手頃な価格でありながら、味もおいしい。
台湾で醸造された酒といえば、宜蘭の中福酒造を忘れてはならないのだが、この名前は多くの人にとってなじみが薄いかもしれない。しかし、手元にあるお米から作られたお酒をよく見てみると、実は知らないうちに中福酒造製のお酒を飲んでいたなんてこともあるかもしれない。
酒の展示会に参加することも、チェーン店に出すことも、ホームページに詳しく情報を載せることもせず、醸造所の場所さえも三星郷の畑の中の人目に付かないところにある。だが、そんな目立たない場所にも関わらず、台湾が民間企業に酒造を許可した20年前から商売を続けてきた。
2002年、台湾では初めて民間企業の酒の醸造が許可され、未来の黄金産業として注目された。台湾での酒造りの初期は、料理酒の製造が主流だったが、中福酒造が最初に選んだのは、最も困難な道だった台湾での日本酒造りへの挑戦だ。

© Photo Credit: : Mariano Brangeri
中福酒造の創業者である馬何增氏は、酒造りの経験者ではなく、彼が学んだのは海軍としての航海術や、ヨットや水中爆発物処理等でプロライセンスも所持している。ところが、当時台湾の海はまだ解放されておらず、馬氏は自分の技術を生かす場がないまま、左営海軍士官学校を去ることになる。その後、「第2の仕事」を探すが、宜蘭で見つけるのは容易ではなく「だったら自分で何かを始めようと思った」と語った。
当時、乳酸菌を専門とする「生合生技公司」という企業が馬氏を中国に視察に行かせ、そのまま中国支社を任せるという予定だったが、7日間の視察を終えた馬氏は、やっぱり台湾に帰ることに決めた。「生合生技公司」には乳酸菌株と農産加工を組み合わせた産学連携プロジェクトがあったが、台湾にはまだ実施部隊はなく、プロジェクトを引き継いだ馬氏は、食の研究をしていた弟の馬定璋氏を説得し、故郷の宜蘭で地酒の実験所を作ることにした。
「生合生技公司」から提供された菌株を生かし、馬氏は台湾で紹興酒としてよく飲まれている酒の原料米「台中70糯」と、かつて日本の天皇に献上され「天皇米」と呼ばれた「吉野一号」を加えて、酒を造ることを試みた。しかし、当時はまだ日本酒を飲むことが一般的ではなく、400元(台湾ドル)の日本酒は高価すぎて売れないとされていた。また、吉野一号は手入れが大変なため、周りの農家に栽培を依頼したが、ほとんどの農家が嫌がり、中福酒造が生き残るためにはまず戦略を変える必要があり、当時の主流であった蒸留酒作りに舵を切った。