2023-05-21 観光

嘉義の「二通」を歩く―― 少しずつ再現される かつての「木都」の姿

注目ポイント

「一府(台南)二鹿(鹿港)三艋舺(万華)」という言葉があるが、これは清の時代の台湾で南から北へと開拓が進み、政治経済の中心地が広がっていったことを指す。だが、台湾西部平野の中心に位置する嘉義では、実は台南より早くから町を囲む柵が設けられ、高雄より早くから工業都市として発展していたことをご存じだろうか。

文・鄧慧純 写真・林旻萱 翻訳・山口 雪菜

かつては「桃城」や「諸羅」と呼ばれた現在の嘉義市では、早くも1704年に城壁として垣根が設けられた。ただ1906年の梅山大地震に見舞われ、300年にわたって発展してきた街のシステムが壊滅した。そこで日本当局が都市計画を立て直し、碁盤の目の通りが設けられたのである。当時の二通(今の中正路)は、台湾人が民生用品を取引する物産の集散地だった。

1912年には阿里山林業鉄道が開通し、1914年には「東洋一」とされる嘉義製材所が完成。欧米から最先端の設備が導入され、木材産業集落が形成され、「木都」と呼ばれるに至った。

嘉義は阿里山の林業資源によって発展した。

代々受け継がれてきた物語

台北の大稲埕からスタートし、文化や自然に触れる散策や旅行のコースとガイドを提供する「島内散歩」は、2022年に嘉義にも進出した。「環時好室」を拠点とし、散歩や散策を通して故郷を知ろうという活動で、彼らが最初に打ち出したのは「二通」の物語だった。

「島内散歩」の雲林・嘉義・台南地区のディレクターを務める陳怡秀さんによると、日本統治時代、大通(現在の中山路)は日本人エリアで、二通は「本島人街」と呼ばれていた。その名の通り、地元の人々の商取引が盛んな地域だった。「二通では、人が生まれてから棺桶に入るまで、必要なものはすべて買えると言われていました」と言う。現在でも、ここには多くの伝統産業が残っていて「山産行」もその中の一つだ。

「山産行」というのは台北の迪化街にあるような各地の物産や乾物などを扱う店のことを指す。中正路に面した「益昌山産行」を経営する謝文祥さんが簡単に説明してくれた。「山で採れたものはすべて山産と呼び、キクラゲ、蜂蜜、メンマ、シイタケ、愛玉籽、金針菜などの乾物があります」嘉義市は林業鉄道があるため、日本統治時代には陸路の要衝で、南部と北部の物産の取引も盛んだった。謝文祥さんは向かいの商店を指し、昔は旧正月前はお客が絶えることがなく、シャッターを下ろす時間さえなかったと言う。また、隣の店には銀行が会計担当を派遣して手伝っており、給与も銀行から支払われていた。店の収入を銀行に預けてもらいたいからで、こうしたことからも、当時この通りがいかににぎわっていたかがうかがえるというものだ。

中正路には他にも数々の老舗がある。ミシンを扱う「嘉義針車行」も5代目が経営する老舗だ。その歴史の長さは、入り口に書かれた4桁の電話番号からうかがうことができる。1944年の創業で、店内には自社で開発生産した東郷ブランドのミシンが並んでいた。かつてミシンは多くの女性たちの商売道具だったのである。店の外観は洗い出し仕上げだが、内部に入るとヒノキ造りであることに気付く。ヒノキの階段と、木に刻まれた商標がこの空間の物語を伝えている。

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