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2023-05-14 経済

教育と称して少女を工場送りに スイスで1970年代まで続いた強制労働

注目ポイント

スイスでは1970年代半ばまで教育という名の下に強制労働が行われ、スイスの工業界もその恩恵を受けていた。

スイスでは1970年代半ばまで教育という名の下に強制労働が行われ、スイスの工業界もその恩恵を受けていた。

第2次世界大戦が勃発する数カ月前、スイスは国会で強制労働を禁止する条約他のサイトへへの加入を決定した。同条約は今日まで効力を持つ。

しかし加入するのは単に倫理的な理由からだった。政府は同条約について、スイスには関係なく、「植民地の原住民の労働」にのみ適用されると記した。

この認識は全くの誤りだった。強制労働が行われていたスイスこそがこの条約に該当した。しかしこれが明らかになるまでには、数十年を要した。その間、数千人が行政の「保護」による悲運に見舞われた。

 

寄宿舎の少女を工場にあっせん

リーゼロッテ・Sさん(82)もその1人だ。他の何百人もの十代の少女たちと同様、「事後教育」を理由に民間企業の工場宿舎へ入れられた。1960~62年、リーゼロッテさんはアッペンツェル・アウサーローデン準州ヴァルツェンハウゼンのゾンネンベルク女子寄宿舎に軟禁された。このような宿舎では入居者をスイス企業の工場で働かせることで資金を工面していたが、入居者に賃金は支払われなかった。

商業登記簿にも登録されているこの寄宿舎は、好景気の時には2社から入居者のあっせん手数料まで受け取っていた。

ヴァルツェンハウゼンのこの寄宿舎には厳しい規則があった。逆らう者は拘禁する。脱走者は探し出す。脱走後に帰還を拒否する者はしばらくの間監房に幽閉されるだろう。リーゼロッテさんのように。リーゼロッテさんは「これに対して誰も責任をとらなくてよいというのは重大な不正義だ」と語る。

リーゼロッテさんは1960年3月22日にヴァルツェンハウゼンにやって来た。狂乱の60年代が始まったばかりの頃だ。スイスではドイツ語歌謡曲「Itsy Bitsy Teenie Weenie Honolulu Strandbikini(邦題:ビキニスタイルのお嬢さん)」がビーチスタイルを大きく変えていた。

教育と称し、私立女子寄宿舎では単調な工場労働が行われていた。賃金は寄宿舎に直接支払われ、食費や家賃、健康保険料など個人的な出費に充てられた。

リーゼロッテさんは今日、多くのことを当時よりも批判的に見ていると言う。「寮長がいかに私たちを搾取したか。不自由であることを利用したか。とてもひどいことだと思う。当時はそれが私たち少女にとっては普通だった」

「私語禁止!秩序をもってやり遂げろ!」。強制労働のモチベーションを高めるため、女子寄宿舎にはスローガンが書かれた横断幕が掲げられた RBA/Staatsarchiv Aargau/Reto Hügin

 

拘束生活の費用を自ら稼ぐ

搾取は構造的だった。国は10代の少女を軟禁するのにこのお金を使った。ベルン当局はリーゼロッテさんにわざと費用が掛からない施設を選んだ。

リーゼロッテさんの年金証書には、国が強制労働に基づいた「給付金」でいくら貯蓄したか詳しく記載されている。リーゼロッテさんは軟禁されていた33カ月間に書類上では8475フランの収入を得た。現在の価値に換算すると約3万4千フラン(約500万円)相当だ。諸費用が引かれた後に貯金通帳に残ったのはそのうちのたった1%だった。21歳で寄宿舎を出ると、手に職もなければお金もなかった。

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