注目ポイント
台湾人女性と結婚し、長年台北在住ライターとして活躍してきた広橋賢蔵氏がこのほど台湾で帰化申請し、晴れて『新台湾人』となったが、同じような境遇の隣人たちにも興味を持ってインタビューを続けていくと、少し特殊な事例との遭遇も。日本人の母と福建省出身の父の間に生まれ、日本統治時代から戦後の「中華民国」体制へと、激動の歴史の中で4つの姓名を持つ女性の証言からは、台湾の激動の歴史が浮き彫りになった。
東京居住時代に、頼さんに湧き上がったのが国籍の問題だった。
自分は広島県出身の母を持ち、日本統治時代に生まれた日本人(両親とも30代で亡くなり、叔父に引き取られたが、日本領台湾籍の身分で家庭内でも日本人と同様に、日本語で生活をしていた)というわけで、台湾の在日窓口機関である当時の亜東関係協会東京事務所へ赴き、日本籍復帰の手続きを踏むことになる。当時は頼さん同様に日本籍を要求していた「元日本籍」の台湾人が約8000人いたそうだ。
ほどなく、広島の旧家の戸籍が偽りなしと確認され、頼さんは晴れて「国枝トミコ」の名前で日本国籍取得が認められた。これで頼さんは4つめの名を得たことになった。
ご自身ではそれを「友人、知人は多くいますが、時代ごとに別の名前で呼ばれていたので、相手がどの名の時代の友人だったかが時々わからなくなる。それはとても面倒くさいことです」と笑っていた。
その後、住み慣れた台湾に戻って以降、台湾社会は次第に民主化、本土化され、おだやかな老後を過ごすことになった頼さん。日本語を忘れてはいけないと、90年代に成立した「台湾川柳会」の月例会に欠かさず参加している。その時に使用している名は「頼淑僖」でも「国枝トミコ」でもなく、昔からなじみのある「頼とみ子」。名前は「トミコ」から読みやすい平仮名混じりの表記に変更した。頼さんにとって5つ目の名前というワケだ。言いそびれたが、頼さんは22歳で結婚され、1男2女、どころかいまやひ孫もいて、多くは台湾に居住しており、親戚に囲まれ、94歳という高齢にもかかわらず元気に外出し、日本語で川柳を詠み、いかにもかくしゃくと悠々自適の日々を得ている。

頼さんの数奇な人生はそのまま台湾の複雑な歴史を象徴しているといえるだろう。
常日頃から若年性の健忘症に悩まされている筆者も、日本統治時代から戦後の台湾社会をたくましく生き抜いた頼さんのような先輩たちにあやかり、人生100年時代を邁進したいとの思いを新たにした次第である。
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