注目ポイント
台湾人女性と結婚し、長年台北在住ライターとして活躍してきた広橋賢蔵氏がこのほど台湾で帰化申請し、晴れて『新台湾人』となったが、同じような境遇の隣人たちにも興味を持ってインタビューを続けていくと、少し特殊な事例との遭遇も。日本人の母と福建省出身の父の間に生まれ、日本統治時代から戦後の「中華民国」体制へと、激動の歴史の中で4つの姓名を持つ女性の証言からは、台湾の激動の歴史が浮き彫りになった。
そうした出自のよさもあってか、広島呉市出身(旧姓国枝)の母親と結婚。そして昭和4年(1949)に生まれたのが「頼トミコ」さん(当時の戸籍ではカタカナ表記)だった。
これを振り出しに合計で4回名前が変わるので、以下注意してお読みいただきたい。
台湾現地人と日本内地人の結婚が珍しくない世の中になり「頼トミコ」と漢系と日系の混血を絵に書いたような名前でも違和感のないご時世に、頼さんは裕福な家で何不自由ない少女時代を過ごしたが、その背後からは軍靴の響きが迫りつつあった。
現地人の「皇民化」強化の一貫として、台湾で「改姓名運動」が提唱されたのは昭和15(1940)年。家族のつながりを重視する漢族系に対し、先祖からの姓を改めさせる、というのはやや強引にも思える話だが、当時日本内地人と台湾現地人との市民としての身分差が顕在する中で、日本名に改姓することで社会的格差の解消や行政面での待遇向上なども見込めることから、強制ではなかったものの多くの台湾人が運動に同調した。ご承知の通り日本はその翌年からアジアや太平洋を舞台にした大戦争に突入していったわけで、沖縄、朝鮮半島同様に、台湾も内地との一体化が強く求められる時代にさしかかっていたといえる。
この改姓では家長が元の姓の一部を生かす形で決めるなどしたことがよく知られている。たとえば張姓は長田や弓長、陳姓は東山、高は高田や高山、江は江川、江本、潘は三田などだ。あるいは孫→中山、荘→本庄、洪→三井など、連想ゲームのように改正することもあったようだ。
その際、黄姓は廣田、廣瀬などとしていたことも発見した。筆者が「廣橋」を「黄」に改姓するのとは全く逆の発想が、戦前の台湾であったのには隔世の感を持った。
そんな改姓名運動の流れに乗り、頼さんは昭和16年(1941)から「淡水河辺に住み、しかも父が頼の字にこだわった」ことから「河瀬トミコ」を名乗ることになった。当時は12歳、女学校に進学した年頃であったため、女学校の同窓生からは今も「河瀬さん」と呼ばれることがあるという。
「どの名の時代の知人だったかが分からなくなる」
昭和20(1945)年8月に終戦を迎え、台湾は同年10月25日の台湾「光復」を経て、日本統治時代は終わり、「河瀬トミコ」さんは再び頼姓に戻った。が「トミコ」は漢字表記がなかったので、名前は漢字名にしなくてはならず、新たに中国人らしい「淑僖」の名前を得ることとなった。
つまり16歳にして3つめの名前「頼淑僖」を名乗ることとなり、そのまま「中華民国」体制の台湾で青春時代を過ごした頼さんだったが、次第に中国大陸が国際社会の中で台頭し、1972年には日中国交正常化が行われ、それに伴って日台は断交。台湾社会における日本への風当たりが厳しくなったこともあって、73年から75年の間、東京に居住することになる。