2023-05-07 政治・国際

「私には5つの名前がある!」激動の台湾社会を生き抜いた大先輩の改姓名遍歴 【広橋賢蔵の『余はいかにして“台湾”人となりしか』】番外編     

注目ポイント

台湾人女性と結婚し、長年台北在住ライターとして活躍してきた広橋賢蔵氏がこのほど台湾で帰化申請し、晴れて『新台湾人』となったが、同じような境遇の隣人たちにも興味を持ってインタビューを続けていくと、少し特殊な事例との遭遇も。日本人の母と福建省出身の父の間に生まれ、日本統治時代から戦後の「中華民国」体制へと、激動の歴史の中で4つの姓名を持つ女性の証言からは、台湾の激動の歴史が浮き彫りになった。

「頼とみ子」さんとの出会いは川柳会

ついに台湾に帰化したと大威張りで「TAIWAN」(中華民国)パスポートを振りかざしていると、「じゃあ漢名はどんな風にしたんだい?」と問われることも少なくない。

まだ暫定的だが、正式な身分証が発行される際は、そこに刻む姓を「廣橋」の「廣」の字から「まだれ」を外し、「黄」に変えようか。そんな風にふとつぶやいた時、ちょうど隣に知人の黄さんがいて「私と同姓だ!」と握手を求められ、これまでになかったような濃厚な近親感をかもしだすこともあった。

名のほうは、漢字を見て台湾の人から「賢蔵とはいい名前だね」と言われる(西遊記の三蔵法師の号名「玄奘」とも発音が似ている)ので捨てがたいのだが、何しろ画数が多いのがこれまで煩雑に感じていたので、思い切って「玄三」と画数を切りおとしての表記がラクかな?などと思い描いている。

現在所持している「TAIWAN」(中華民国)パスポートも身分証取得時に切り替えが必要なので、その際「黄玄三」に変更することになるが、英語読みは「KENZO HIROHASHI」を残しておかないと、日本に戻った時などに面倒が生じる、などというアドバイスも受けて最終決定を待つ段階なのだ。

そんな折、台北で毎月開かれている川柳の会に顔を出すと、お元気な90歳代の先輩たちの中で「頼とみ子です」と名乗られた上品な女性から、「実は私、これまでに名前が何度も変わりまして…」という話が飛び出した。これから漢名をつけようとしている私としてはタイムリーかつ興味津々の話題だ。

「頼とみ子」さんは、日本統治時代の昭和4年(1929)生まれで94歳、というから終戦時は16歳。日本語教育をしっかり受けている世代だが、この世代の方は言うまでもなくご高齢のため、明晰な会話ができる方は少なくなっている。頼とみ子さんのような受け答えのしっかりした方とご縁ができた際には、可能な限りオーラルヒストリーを聞き取っておこうと心がけている筆者としては、「ぜひ、そのご事情を詳しく聞かせてください」と食いついたのはいうまでもない。

頼とみ子さんは90を過ぎても川柳や俳句の会に通う。=4月2日、台北市内で(筆者撮影)

果たしてその証言からは、日本統治時代から「中華民国」体制、独裁時代から日台断交を経て、台湾の民主化、本土化に至る激動の歴史に翻弄された一市民の数奇な運命が浮き彫りになり、戦後生まれの筆者には、ただただ驚きの連続なのであった。

 

改姓名運動では「頼」が「河瀬」に…

「頼とみ子」さんのお父上は福建省出身。日本統治時代になってから、中国本土で流行った伝染病の危険から逃れ台湾に来て日本籍となった移住者だった。裕福な家庭の跡取り息子だったというから、台湾移民もそう困難ではなかったようだ。

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