注目ポイント
民主化が進むとともに世相も激しく変化した台湾社会。いつの間にか見なくなった日常の光景や人々の交わり方も。仕事や研究活動を通じて長年台湾と向き合ってきた筆者が、ほんの少しむかしの台湾の姿を掘り起こし、振り返ります。今回は1970年代の日本芸能界で光芒を放ち、あるいは消えていった先駆的な台湾人女性歌手らの足跡を振り返ります。
鷗陽菲菲の大ヒットから
今回は昭和40年代後半、つまり1970年代前半の日本芸能界のことを話そう。
1971年9月に台湾人歌手、鷗陽菲菲(オーヤン・フィーフィー=当時の一般的なメディア表記による。以下同じ)を「雨の御堂筋」(東芝音楽工業)でデビューさせるやこれが大ヒットをおさめた。当然日本芸能界は「二匹目のどじょう」を狙いはじめる。「台湾には逸材がいるぞ」とばかりに…

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「雨の御堂筋」がミリオンセラーを記録した翌73年、日本芸能界は、台湾で「20世紀のモナ・リザ」と称され、台湾のテレビ局・中国電視の専属だった方怡珍(ファン・イーツン)に目をつけた。同年4月に「我愛你」(ウォー・アイ・ニー)(徳間音楽工業)で日本デビューさせた。
しかし順調にヒットを飛ばしていた鷗陽菲菲とはうらはらに、方怡珍はシングル3枚、アルバム1枚を残して日本の芸能界を去る。これは事務所・レコード会社のプロモートが悪かったのか、マーケティングミスなのか。それもあるだろう。だが、1971年にデビューした『三人娘』(天地真理、南沙織、小柳ルミ子)の人気沸騰で明らかになったように、この頃から日本芸能界の歌謡マーケットは、高嶺の花のように近寄りがたい「美人歌手」よりも、親しみやすく可愛い「アイドル」へと、嗜好の変化が顕著になっていったことが影響したのかもしれない。事実『三人娘』と同年デビューの鷗陽菲菲は「実力派」であり、この路線にはいなかった。一方の方怡珍も「美人すぎる」という表現が大げさではないほどの美人だった。
ただ、台湾近代史を研究してきた者としては、この二人の台湾人女性歌手のデビューの間に、日本と台湾の断交(1972年9月)があったことも影響しているのではないかと思ってしまう。パンダ・ブームとともに日中友好ムードが日本社会に広がる一方、日本人の台湾へ寄せる関心が急速にうすれていった時代だからだ。
日台断交が影響しているかどうかは定かではないが、鷗陽菲菲のアルバムリリース歴をみると、1973年の『火の鳥』以降1979年の『RETURN』まで少し間が空いている。単なる事務所やレコード会社の問題、あるいは本人の芸能活動に対する考え方の変化によるものかも知れないが、気になるところだ。
名前が新鮮だったテレサ・テン
話を戻そう。
1974年3月、日本芸能界はすでにアジア圏で実績があった鄧麗君ことテレサ・テンに目をつけ、「今夜かしら明日かしら」(ポリドールレコード)という曲で、「アイドル路線」でデビューさせたが、残念ながらこれは不発に終わった。