注目ポイント
台湾で建築物を眺めていると、それが建造された時代背景をうかがい知ることができる。清朝時代、日本統治時代、そして戦後、大陸から「中華民国」ごと逃れてきた蒋介石・蒋経国時代など、それぞれに特徴がある。雑誌・書籍編集者として台湾でも活躍してきたベテランライターが、台湾の街角を散歩しつつ、台湾の素顔を紹介する。
城壁と濠を取り払うと、幅の広い道が現れる。いまの名称でいうなら、北門のある東西に走る道は忠孝西路。南門のあるのは愛国西路。南北に走る東門のあるのは中山南路、西側は中華路である。グーグルマップなどで見ると、台北府城の規模が実感できる。
「東門」が語る戦後史
中山南路を南へ下ると、仁愛路・信義路と交差する円環の中央に「東門」が見える。
と、その門の姿には少々驚かざるを得ない。「北門」の姿とは大きく異なっているのだ。
台北府城の城壁や城門は、広東から腕利きの職人を何人も招いて造らせたという。それで北門は清朝時代の中国南方の様式だとか。しかし、東門は北京にでもありそうな北方の様式になっている。日本人から見れば、いかにも「中国」という印象は、東門のほうだろう。
なぜこんなことになっているのか。
実は、東門は1966年に修復された際に、現在の姿に造り変えられたのだ。東門ばかりか、南門も小南門もこうした北方の様式になっている。以前はどれも南方の様式だったのだ。

台北市によれば、当時、観光客目当てでこんな姿にしたのだという。北門も造り変えられる予定だったが、工事が遅くなったことなどから、原形をとどめることになったようだ。
そういえば、日本の一般市民が自由に行く海外旅行が始まったのは1964年から。自由とはいえ外貨持ち出し額には制限があって、近場の韓国への旅行が人気だった。それで韓国はけっこうな外貨を稼いでいたらしく、台湾も観光客を呼ぼうと画策していたとの話もあった。
「台湾化」と「中国化」と
しかし、観光客目当てだけで、いかにも「中国」という姿の城門に造り変えたのだろうか。
当時の状況をみると、ほかにも理由があるように思えてくる。
1954年から60年代半ばまで断続的に起こった中台両岸の対立、いわゆる「台湾海峡危機」や、大陸の中国で1965年秋から動き出し、翌年夏に紅衛兵が登場して大きなうねりとなる「文化大革命」に世界の眼は注がれており、中華民国台湾は、自らの立場を国際社会に示す必要があった。中華文化の正統性を担っているのは中華民国なのだ、と。
66年元日、蒋介石総統は「全国同胞に告げる書」を発表、復国建国の国民革命を始める年だと述べた。そして、この年、中華文化復興運動を開始するなど、台湾の「中国化」をより強化しようとしたといえる。
そうしたなか、東門などの城門は、いわば「中国化」した姿になったように思う。

そして台湾では、今なお「台湾化」と「中国化」とのせめぎ合いがさまざまなかたちで現れる。