注目ポイント
台湾で建築物を眺めていると、それが建造された時代背景をうかがい知ることができる。清朝時代、日本統治時代、そして戦後、大陸から「中華民国」ごと逃れてきた蒋介石・蒋経国時代など、それぞれに特徴がある。雑誌・書籍編集者として台湾でも活躍してきたベテランライターが、台湾の街角を散歩しつつ、台湾の素顔を紹介する。
「北門」のタイムマシンに乗って

台北といえば、101階建ての台北101がランドマークであるように、現代的な都市だというイメージが強いといえるだろう。いや、そうでもないかな?断言まではしかねる。とはいえ、南部の台南や高雄と比べれば、台湾情緒も薄く、歴史の厚みもいまイチだ。そして、台湾的なもの、中国的なもの、日本の影響が濃いもの、それ以外の現代的なものと、それぞれが主張してごちゃ混ぜになっているというのが、私の台北へのイメージである。
その台北という都市の成り立ちを、タイムマシンに乗ったかのように語ってくれるのが「北門」だ。台北駅前の忠孝西路を西に向かって歩くと、やがて奇妙な建物が見えてくる。これが台北という都市の原点「台北府城」の城門の一つ「北門」である。
北門は正面から見ると、どこかユーモラスで素朴な印象もある城門だが、この城門があった台北府城とはどんなものだったろう。

台北の原点「台北府城」の規模
「台北」とは文字どおり台湾の北部を意味している。
北部には、大昔から平地先住民「平埔族」の一つケタガラン人が住み、その集落が点在していた。
台湾は、台南が古都と呼ばれるように、南部から発展していった。やがて北部にも漢人が入って開拓するようになり、19世紀半ばともなれば、北部で生産する樟脳や茶葉などの輸出で、南部を凌ぐ繁栄を見せるようになっていた。それで大きな市街になっていたのが新荘(現在の新北市・新荘区)、艋舺(台北市萬華区)、大稲埕(台北市大同区)であり、いずれも商船が行き交う淡水河水系の沿岸に位置していた。
ところが、北部には行政や防衛のためのの拠点がなかった。艋舺には役人が半年ごとに新竹とを行ったり来たりする出張所のような「公所」があるのみだった。
その拠点として計画・建設され、1884年に竣工したのが「台北府城」である。
その「城」は石造りの壁と濠とで囲まれた四角い形で、城壁は高さ4.5メートル超、厚さは約3.6メートルあった。東西では1キロ超、南北約1.25キロという規模である。
その城壁の東西南北それぞれと、南門の西に「小南門」という計五座の城門が設けられ、西門からは艋舺、北門からは大稲埕という賑やかな市街につながっていた。
頑丈な城壁に囲まれた台北府城だったが、竣工した当初の城内は、行政機関としての台北府の施設や先読みした商人が作った商店などがいくらかあるぐらいで、以前からの水田が広がるばかりだった。
その水田広がる城内に建設・整備が行われて次第に市街らしくなっていったが、1895年から日本統治へと移行し、台北はまた様相を変えることになる。台北には日本統治の拠点・総督府が置かれ、近代都市化を図ろうと、城壁と濠、そして城門は撤去することになった。が、住民には撤去に抗議の声もあって、城壁と濠と西門は撤去されたが、ほかの四座の城門は遺されることになった。