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The News Lens JAPAN編集長・吉村剛史が台湾海峡や国際政治、その他最近の気になる話題について語る不定期連載コラム第3回。今回は車両更新問題に関し、引き続き日本製新型車両が導入される方向で交渉がまとまった台湾新幹線(高速鉄道)について。
正式には「台湾高速鉄道」(高鉄)だが、時に台湾の人々はごく自然な流れで「新幹線」と呼んでいる。開業したのは2007年1月5日。開業当初は今より多少短い路線だったが、その後の整備で現在は台北東郊の南港から台北、台中などを経て左営(高雄)に至る約350キロに12の駅を設置して営業している。

「日本の新幹線技術の初の海外展開事例」とされ、かつ戦後の「日台経済協力の象徴」とも呼ばれるこの路線の車両は、ご存知の通り東海道新幹線などでおなじみの「700系」がベースとなった「700T」型車両であり、乗っていると一瞬、東京-新大阪間を移動しているかのような気がするほどだ。

筆者はおそらく日本人としては最も早い段階でこれに乗った。
2007年元日、時の陳水扁総統が開業を目前に、板橋(台北郊外)-台中間を試乗した際、同行取材したのだ。当時は正式な特派員ではなく、所属する新聞社派遣の台湾大学留学生だったが、台北支局応援業務のひとつとして喜んでカメラを手に出かけた。
この時、板橋駅を発車後、陳水扁総統は早々に記者団が乗る車両に現れ、以後台中駅に到着するまで、通路に立ったまま座席の記者団の囲み取材に応じた。
「立ったままでも違和感がないほど揺れず、安定した走行」を総統自らがメディアの前でアピールしてみせたのだ。
日本の新幹線が台湾を走る背景には、地震が深く関わっている。
環太平洋火山帯に位置する日本と台湾にとって、地震災害は共通の悩みだが、2011年の東日本大震災時に台湾が200億円超という世界最高額の義援金を被災地に寄せてくれたことは象徴的だ。だが、それ以前の1995年の阪神淡路大震災、1999年の台湾中部大地震でも双方の支援のやりとりは手厚いものがあった。
台湾新幹線整備事業では1997年、いったん独仏企業連合が受注したものの、99年に日本企業連合が逆転受注した。
99年の台湾中部大地震を受け、時の李登輝総統が阪神淡路大震災時の山陽新幹線の素早い復旧を念頭に、強く日本の技術を推したことが逆転の背景にあったとされる。被災地支援を通じた日台間の交流も、それを後押ししたのだろう。
その台湾新幹線の車両更新が、ここ数年日本と台湾にとって、のどに刺さった魚の小骨のような問題であったことをご存知だろうか。
台湾新幹線を運営する台湾高速鉄道会社では利用客の増加などを見込み、2019年から新車両への更新・増強計画を進め、日本側との交渉にも乗り出していた。しかし、台湾側が日本側の提示価格を「見積もりの約3倍」だとした21年以降、交渉は暗礁に乗り上げたまま、先行きが見えない状態だった。