2023-03-16 政治・国際

1931甲子園準優勝!台湾・嘉義農林学校野球部の語り部・蔡清輝さんの言葉

© Photo Credit: Shutterstock / 達志影像 KANO Baseball Park in Chiayi, Taiwan

注目ポイント

侍ジャパンの活躍が注目されるWBC。今回台湾は惜しくも予選敗退したが、2013年WBCでの日台の熱戦と爽やかな交流は球史に残るゲームだった。それだけに台湾代表チームの来日が幻となったことに対し日本の野球ファンの落胆も大きく、SNS上には台湾敗退を惜しむ声が続出。1931(昭和6)年夏の甲子園大会で準優勝した台湾・嘉義農林学校にさかのぼる日台の野球を通じた絆を想起させた。金城学院大(名古屋市)文学部講師で戦時下の学徒動員などに詳しい小野純子氏がWBC白熱の今、嘉義農林学校野球部OBで、名将・近藤兵太郎監督の最後の教え子・蔡清輝さんとの交流を紹介する。

蔡清輝さんは、1928(昭和3)年5月、嘉義県新港で4人兄弟の3番目として生まれた。新巷公学校に入学し、その後「国民学校」と改称した同校を卒業後、1942年に嘉義農林学校に第24期生として入学。野球部に入部し、戦争の影響を受けたものの、近藤兵太郎監督の最後の指導を受ける立場となった。

こうした履歴から蔡さんの日本語は、ほとんどネイティブともいえるほどに流ちょうだ。台湾で2014年に映画『KANO』が公開され、ブームとなったとき、蔡清輝さんは「自分にできる日本との交流は、『野球』について語ることだ」と考え、嘉農野球部のOBとして、野球部と、伝説の名将・近藤兵太郎監督の語り部の役を担うことを決心したという。

「2015棒球口述歷史研習營」で蔡清輝さんと出会った当時大学院生の筆者の研究テーマは「学徒兵」であり、蔡さんは、ぜひとも戦争体験談などの聞き取りを行いたい魅力的な調査対象だった。

結局この「2015棒球口述歴史研習営」への参加が縁となり、翌2016年3月から半年間、国立嘉義大学応用歴史系の李明仁先生の研究室にお世話になった。

短い時間ではあったが、嘉義大学や中央研究院台湾史研究所で多くの文献と向き合い、博士論文のテーマと今後の人生を決めた大きな転換点となる時間であった。その貴重な時間の一部を割いて、1年前のセッションで知り合った蔡清輝さんへの聞き取り調査も進めた。

蔡清輝さんは、1945年3月、嘉義農林学校4年生の在学時に同級生らと共に学生部隊・嘉農隊を編成した。正確には特設警備部隊第511大隊《学徒》である。嘉義農林4年生は、「志願」「徴兵」という言葉もなく、無条件で全員が入隊し、特に検査もなかったようだ。

蔡清輝さんは、「学校で教官に『集合!』と言われて校庭に集まりました。深刻な気分は全くなく、遠足にでも行くかのような気軽な心持ちで集まったら、そのまま軍務に就くことになり驚きました」と証言する。

「部隊は、映画の中でもライバル校として登場する嘉義中学と一緒に集められ、嘉農隊、嘉中隊がそれぞれ小隊を編成しました。でも同級生と、クラス別に小隊を組んでいたこともあり、特にこれといったことはしなかった」といい、「飯ばかり食べていた」というのが偽らざる記憶だそうだ。

一方で、自身の所属していた部隊を「命部隊、特攻隊、対戦車撃滅隊」と表現することもある。実際には学生部隊に所属していた蔡清輝さんだが、当時は「命部隊(第71師団)という大規模部隊の特攻兵」であると認識していたようだ。ただし「私たちには正式な兵籍がなかった。台湾人だからだったかもしれないが」と不満げに語っていたことも印象的だった。

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