注目ポイント
日清戦争(1894~95)の結果、下関条約によって台湾は1945年まで約半世紀の間、大日本帝国の統治下に置かれた。台湾医学の先駆者となった杜聡明氏の三男として生まれ、戦後、米国で世界的な毒性学の権威となり、日本の大事件解決にも協力した杜祖健氏が、留学を機に台湾から移り住んだ米コロラドでの生活や、退職の準備に奔走した日々を振り返る。
ここでの主な仕事は、入院患者への見舞いなどに訪れた外部からの訪問客の応対が主で、お目当ての入院患者がどの病室にいるのかを調べてアナウンスする作業が最も多かった。
アングロサクソン系の名前は問題がなかったが、米国には世界中からいろんな人種が集まってきているので、さまざまな国や地域にルーツを持つ風変わりな発音の名前も、一度だけ聞いて即座にどの患者のことかを判断し、割り出す作業は存外頭を使い、悩むことも間々あった。
しかし私はこの仕事、作業をなんとか克服して結果的に約10年間続けることができた。
結局68歳まで大学に
先に述べた通り、米国では通常退職年齢は65歳である。しかしその10年前から退職後の準備をしているうちに、どういうわけだか大学に限っては退職の年齢の制限がなくなった。その理由について私は詳しくないのだが、とにかく大学の教員だけはいつまでも大学に残っていいということになったことを受けて、私の場合、研究費、助成金が1998年まで続くことになっていたため、結局68歳まで大学に残り、その後、退職したのである。
ところで、日本統治下の台湾で生まれ育った私は日本語が出来るため、日ごろから日本との関係が深い。
日本の教授から、「自分の助手を米国留学させたいので、ポストドクター(博士課程修了の研究者)として採用してくれないか」という頼みを受けることも度々あった。
そのため私は大学側に「生化学教室で続けて研究したい」と申請し、教室主任から「オフイスと実験室を使ってもいい」との許可を得ていた。
だから私は毎年2~3万ドルを寄付してその金で日本からのポスドクを採用して研究を続けた。主な研究用機器はみなほかの人にあげてしまったので私の研究室に主要な機材はなくなってしまった。
あるとき福岡県警所属M君(もし森永さん本人に名前を出す許可を取られている場合は氏名で書いてください)君が、日本の警察から私の研究室に送りこまれてきた。どうも当時日本でタンパク毒による殺人が起きたケースあったが、警察はそれを検出できなかったらしい。その対策としてM君は私のところに送られてきたようだ。
彼の研究には特殊な機材が必要である。先述のように私の研究室にはろくな機材が残っていなかったため、彼は日本から必要な機材を持ってきて、研究が終えるとまた日本に持って帰った。
いよいよ退職後の生活
退職した時、私はこの広大な米国の片隅にちょっとした土地を持ってみたいと思った。だが、東海岸や西海岸ならば人口密度も高く、当然地価も高い。