注目ポイント
日清戦争(1894~95)の結果、下関条約によって台湾は1945年まで約半世紀の間、大日本帝国の統治下に置かれた。台湾医学の先駆者となった杜聡明氏の三男として生まれ、戦後、米国で世界的な毒性学の権威となり、日本の大事件解決にも協力した杜祖健氏が、留学を機に台湾から移り住んだ米コロラドでの生活や、退職の準備に奔走した日々を振り返る。
検討対象となった消防のボランティアに関しても、紆余曲折の末、結局はこういう事情から参加を断念せざるを得なかった。
そうして最終的に思い至ったのは、病院でのボランティアであった。
これに関しては、ボランティアを公募する病院を探し、面接を受けに行ったら即座に採用された。
具体的な職務内容は、毎週金曜日の晩6時から9時まで各病室を廻って入院患者らに、「何か読みたい雑誌はないか」と要望を聞いて回ることであった。これは私にとってたいそう都合がよかった。というのも仕事が金曜日の晩ならば、翌日の土曜日は大学の講義がない。つまり研究にさほど影響しない。
最初に雑誌を置いている場所に行って、適当な雑誌を選び、それから各病室を回って、入院患者らにどの雑誌が読みたいかと声をかける。いたって簡単な仕事である。
女性患者の病室は入口ドアが締まっていることが多いのだが、病院側にどうすればいいかと聞くと、「かまわずにドアをノックして入って、希望の雑誌の有無を聞いたらいい」という。
ごくたまに、少し恥ずかしい思いをする瞬間もあった。というのは偶然、かつての教え子に会うことがあったためだ。
もちろん、相手の方こそよほどびっくりして、「杜博士、ここで何をしているのですか」と聞いてくるのだが…
そいう時は正直に「ボランティアとして病院で働かせてもらっている」と返事をした。この仕事には何年か従事したが、仕事があまりにも単調なので、その後病院に対し、「別な仕事をしたい」と申し込んだら、次は救急室に配置された。
私は当初は、張り切ってその新しい仕事に励んだ。仕事内容は、救急患者が到着すると、当人からその病状を聞いて、それをメモして救急医療係の人にわたす。それを見て係の人がどの医師に担当してもらうかを決めるのである。だが、この仕事は私にとってやや難しい作業だとすぐに感じるようになった。
私は化学者なので人体の部位に関する英語の専門用語はさっぱりわからない。とくにご婦人の病気には全くお手上げであった。いや正直に言うとご婦人だけでなく、男性の患者だって大変だった。
ある時男性患者が病院に到着して「痛い、痛い」騒いでいる。
問い質してみてもその病状を把握できずにいたら、業を煮やしたのか彼は自分の股間を指さして「ここ(睾丸)が痛いんだ!」という。さすがにこの時、私にはこの仕事は無理だと、つくづく感じるようになった。
恐らく病院側も私にはこの仕事はできない、と察したようで、1か月ほどで今度は病院の受付の方にまわされた。