注目ポイント
日清戦争(1894~95)の結果、下関条約によって台湾は1945年まで約半世紀の間、大日本帝国の統治下に置かれた。台湾医学の先駆者となった杜聡明氏の三男として生まれ、戦後、米国で世界的な毒性学の権威となり、日本の大事件解決にも協力した杜祖健氏が、留学を機に台湾から移り住んだ米コロラドでの生活や、退職の準備に奔走した日々を振り返る。
第二の故郷コロラド
私は戦後、留学のために台湾から渡米して以来、米国に実に69年間もの長きにわたって居を定めた。その中でもコロラドが私の人生の中では最も長く研究と生活の拠点とした場所で、ここにはトータルで49年間住んだことになる。
いわば私にとって台湾に次ぐ第二の故郷と呼べるコロラドなのだが、そこはロッキー山脈のある所で、全米各州の中でも平均高度の最も高い場所である(図1)。
そのため、南国・台湾とは正反対で、冬季は長く、しかも寒さは非常に厳しい。逆に夏は短いのだが、大陸の真ん中に位置するため、夏の暑さもかなり厳しいところなのだ(図2)。
退職の準備に奔走
さて、米国での退職年齢は65歳が一般的である。
政府が、退職者らのために定期的に金銭を支払う一種の年金制度「ソーシャル・セキュリティー」も65歳からが対象となる。そのため私はその10年前、つまり55歳前後から退職後の生活を念頭に置いて準備を始めた。
私は人生のほとんどを大学のキャンパス内で過ごしたので、大学以外の世界は何も知らないといってもいい。だから将来退職したときに役に立つような仕事を片手間であってもいいので、してみようと決心した。
調べてみるとボランティア活動は案外多いことがわかった。私が教えた学生で、やはりボランティアとして片手間に警察業務をしている人がいたので、彼にどうしたらいいかを尋ねたところ、いろいろと親切に教えてくれた。
彼の説明によるとボランティアでの警察業務は、主に交通整理や夜間のパトロールなどで、このうち後者はパトカーで正規の警察官の隣に座って市街に出て行くこともある。
ただし米国は銃の保持が憲法で規定されている社会なので、だれでもピストルや銃を持つことができるため、警察と犯人との間で撃ちあいになることも珍しくなく、事実それが原因で殉職する警察官も多い。私は単に退職の準備としての経験を持ちたいだけなので、銃撃戦に巻き込まれるのは勘弁してほしいと考え、結局のところボランティア警察官として奉職することはやめることにした。
次に考えが浮かび、検討したのは、大学キャンパス内にある消防団である。ここでもボランティアを受け入れており、特に夜間の活動に関しては消防団員だけが従事することになっていた。
火災はいつ何どき起きるかわからないため、夜中にたたき起こされて火災現場に行くことも間々あることだろう。私は、朝と昼は自分のやるべき研究を抱えている。もし夜中に消防ボランティアで火災現場に出動した場合は、朝はなかなか起きられず、寝ぼけまなこで自分の本分と向き合う羽目になってしまう。これでは不本意だ。