注目ポイント
国連で1948年に採択された世界人権宣言は、第2次世界大戦の惨禍を決して繰り返さないとの強い願いから生まれた。採択75年の節目を前に、この画期的な宣言が採択に至る経緯を振り返り、現代にも通用するのかを取材した。
オーストリア出身のフォルカー・トゥルク国連人権高等弁務官は宣言を「非常に包括的な奇跡の文書」と呼ぶ。2008~14年まで同職を務めた南アフリカ出身のナバネセム・ピレイ氏にとっては、インスピレーションを与える文書だ。「アパルトヘイト(人種隔離)政策の下で人種差別的な法しか知らなかった私たちにとって、宣言がどれほど大きな意味を持ったか想像してほしい」と同氏はswissinfo.chとのインタビューで語った。「普遍的な規範から成るシステムを仰ぎ見ることには大きな意味があった。すべての人間に権利があり、すべての人間がシステムを享受できるとうたう規範だ」
ジュネーブを拠点とする非政府組織(NGO)国際人権サービス(ISHR)他のサイトへのフィル・リンチ代表は、世界人権宣言はさまざまな形で「世界中の人々と地域社会に変化を促してきた」と評価する。「国内法や国内政策の発展に情報や活力を与えると同時に、社会運動や市民社会の活動家の拠り所となっている。また、人権の擁護者に重要なツールを提供する。宣言には、人類を団結させ、すべての人が尊厳を持って生きる条件を定める普遍的な価値が明文化されている」。
世界人権宣言から生まれた国際条約
世界人権宣言は国際人権法の基礎とみなされている。数々の国際条約他のサイトへが宣言の掲げる諸原則を具体化してきた。人種差別撤廃条約(1965年採択)、国際人権規約の自由権規約(1966年)と社会権規約(1966年)、女子差別撤廃条約(1979年)、拷問禁止条約(1984年)、子どもの権利条約(1989年)はその例だ。
ピレイ氏は、これら国際条約の土台となった宣言を「私たちの基本法」と位置づける。マンデラ政権下の南アフリカなど、宣言の原則を憲法に取り入れた国もある。
だが、政府が順守するかどうかは別の問題だ。トゥルク氏は最近、swissinfo.chとの独占インタビュー他のサイトへの中で、「第2次世界大戦の悲惨な経験から生まれたという世界人権宣言の本質を私たちは見失いつつある」と指摘した。「他者や人間、人間の尊厳が軽視される状況が再び世界中で多発している」
国連の監視システム
国連は1993年6月、オーストリア・ウィーンで世界人権会議を開いた。その主要な成果が、人権分野における国際協力や国連の監視能力の強化を目指す「ウィーン宣言および行動計画他のサイトへ」だ。ウィーン宣言を受け、人権高等弁務官が同年12月に設置された。
現在の国連には、国を監視し、国に人権諸条約を順守させる手段が数多くある。「条約機関」が加盟国による条約の適用状況を監視する一方、独立した専門家で構成される「特別報告者」や事実調査団が特定の人権問題や国の状況を調査する。