注目ポイント
台湾東北角の深澳支線は山と海に沿って走り、車窓からは美しい風景を楽しめる。
文・蘇俐穎 写真・莊坤儒 翻訳・山口 雪菜

深澳線は新北市瑞芳区を通る。台湾では数少ない地下資源に恵まれた土地で、「水金九」と呼ばれる水湳洞と金瓜石、九份は黄金の町として知られてきた。
百年にわたる鉱山の発展は、1990年に資源の枯渇と石炭の輸入開放によって終止符を打った。産業の衰退によって瑞芳のイメージは曖昧になったが、映画「悲情城市」や「多桑/父さん」によって世界に知られることとなる。映画の舞台となった九份は今では人気の観光地となり、名物の芋団子を食べ、八斗子の海岸を見下ろす観光客でにぎわうようになった。

深澳支線で今昔をたどる
深澳支線ひとつをとっても、その背後には多くの物語がある。霧雨の中、私たちは瑞芳区海浜里の里長‧鄧麗華とともに浜海公路の傍らにある海浜駅を訪れた。廃駅になって30年たつが、今も駅舎はあり、周囲には洞窟、坑口、宿舎など、かつての鉱山の名残も見られる。
2014年に運行を再開した深澳支線の全長はわずか4.7キロで、瑞芳、海科館、八斗子の3駅のみに停まる。だが、その歴史は日本統治時代までさかのぼり、敷設から廃線、そして運行再開まで、百年にわたる瑞芳の産業の盛衰と町の発展に寄り添ってきた。そのため、お年寄りの多くはこの鉄道に今も深い思いを寄せている。
早くも1935年、日本鉱業株式会社(戦後の台金公司)は、この一帯の鉱業発展のために、水湳洞(当時は「濂洞」)から基隆の八尺門まで軽便鉄道「金瓜石線」を引いた。採掘した鉱物を港まで輸送するためである。
第二次世界大戦が終了すると日本鉱業は台金公司の手に渡ったが、台金公司が経営不振に陥り、1962年に軽便鉄道は廃線となった。これを1967年、台湾鉄路が瑞芳まで伸ばし、また海浜と濂洞などの駅も設けて現在知られている「深澳支線」となった。
深澳支線は貨物輸送と旅客輸送を兼ね備えた鉄道となったが、北部の浜海公路(道路)が完成すると旅客はしだいに減り、海浜駅と濂洞駅は12年後に廃駅となった。そして2007年、深澳の発電所の操業が停止されて支線全体が廃線となった。しかし2014年に基隆海科館が大々的にオープンし、観光客のニーズに応えるために、台湾鉄路が5500万元を投じて深澳支線を再び運行することとなったのである。
南北をつなぐ交通の要衝
深澳支線の起点は瑞芳駅だ。昔から乗換駅として重要な役割を果たしてきた瑞芳だが、その地名から、町の背景がうかがえる。昔は「柑仔瀬」と呼ばれた瑞芳は現在の瑞芳柑坪里で、基隆河の河口と淡蘭古道の間に位置していた。陸上輸送が不便だった当時、台北と噶瑪蘭(カバラン/現在の宜蘭)を結ぶ道が必ず通る要衝だった。瑞芳というのは、基隆河の渡し船の乗り場にあった商店の名で、それがしだいに人々が口にする地名として定着していったと言われている。