注目ポイント
「世界に奴隷制度が存在してはならない」ことは、多くの人が同意することだが、実 際には徴兵制度の本質は「合法的」な奴隷制度であり、多くの国で徴兵制度の合憲性 が模索され続けている。台湾では、兵役に関する主な意思決定者であるはずの国会が 、全ての決定を「プロフェッショナル」な国防部に押し付けている。この場合はどの ような問題が発生するのか?
つまり、馬氏の考え方に従えば、兵役政策に関する検討は、軍隊という閉鎖的で小さい世界の中で行われるべきなのである。民主主義国家においては、すべてが法の支配に従って行われなければならないにもかかわらず、また、カール・フォン・クラウゼヴィッツ氏が戦争は政治の延長であると述べたにもかかわらず、馬氏の考えを参照すれば、兵役に関する問題を考えるとき、
政治上や法律上の考慮など、その他の「不純物」は除外されなければならない。恐らく、馬氏のように、「兵役は国防の”専門”であり、兵役に関する政策の形成は国防部が全面的に決定するべき」と考えている立法委員や国民が少なからず存在する。この「国防の”専門”は”プロフェッショナル”である軍人に全面的に任せておけばいい」という考え方は、一種の「安全保障化(securitization)」の現象である。「安全保障化」という言葉は、もともとオーレ・ヴェーヴァ氏が提唱した言葉である。ヴェーヴァ氏は、とある議題が一般政治の領域ではなく、国家安全の領域に属するとみなされると、一般政治の領域で遵守されなければならない、民主的法治の要求から外れることを、人々が許容してしまうと指摘した。
とある議題が国家安全の領域に分類されると、その議題に関して政府の裁量権が大きくなる。逆に、民主的法治の適用や、基本的な人権保障の要求は弱まり、国家安全の領域では、民主国家が遵守すべきこれらの原則に縛られないとみなされるほどである。とある議題が国家安全の領域にあると宣言されたとき、その議題は「安全保障化」されたことになる(君島東彦氏の「『脱安全保障化』としての日本国憲法」を参照)。
ここ数十年、安全保障化に関する問題は一層深刻になってきている。 多くの議題がますます国家安全の領域に分類され、法の支配に基づく民主主義国家の要求から免除されている。9・11米国同時多発テロ以降の米国における、人権侵害にあたる国家安全に関する法律が、多数成立されたのはその一例であり、近年、台湾で国家安全や防衛的民主主義の名の下で、国民の自由を大いに侵害する、多数の国家安全に関する法律が強化されたことも、安全保障化の一例である。
しかし、安全保障化の拡大は、法治国家の原理や人権擁護など、本来、放棄してはならないとされるべき、民主主義国家の中核的原則の弱体化と衰退を意味する。既存の「民主主義を守る」ために、自らの手で民主主義を破壊するのであれば、本末転倒ではないか?