2023-01-22 政治・国際

【アンソニー・トゥ回顧録】② 吹き荒れた白色テロの嵐

© Photo Credit: Shutterstock / 達志影像 二二八和平公園

注目ポイント

日清戦争(1894~95)の結果、下関条約によって台湾は1945年まで約半世紀の間、大日本帝国の統治下に置かれた。台湾医学の先駆者となった杜聡明氏の三男として生まれ、戦後、米国で世界的な毒性学の権威となり、日本の大事件解決にも協力した杜祖健氏が、戦後の台湾を襲った白色テロの暴風を振り返り、台湾人としての心情を記録する。

死と隣り合わせの日々

私も中国兵の機銃掃射を受けて九死に一生を得るという体験をしたわけだが、1947年に起きたこの「二二八事件」こそ、台湾史上最大の衝撃的な出来事であったと言っていい。

事件勃発後、当時の台湾の行政長官であった陳儀(1883~1950)は、先に述べた通り、自治を要求する台湾人をあざむいて「要求を受諾した」「本土から援軍を呼ばない」などと発表し、態度を穏便に装った。だが実際は中国大陸本土に援軍を要請していた。3月10日頃に台湾北部の港町・基隆(キールン)から上陸した中国兵は、町で台湾人を見るやいなや、その場で撃ち殺すという具合だった。

私の父で、台湾人初の医学博士・杜聡明(1893~1986)は、この当時国立台湾大学(1945年に台北帝国大学からいったん国立台北大学に改称されたのち同年に再度改称)の医学院院長(医学部学部長)であった。

国立台湾大学の校門(杜祖健氏提供)

中国大陸からの援軍が来る前、台湾人は各地で二二八事件の処理委員会を設置したが、仕事に忙殺されていた父は、その委員会に出席することができず、代わりに彰化・鹿港の出身で台湾史上3人目の医学博士だった施江南氏(1902~47)に出てもらっていた。その後、彼は中国人(外省人)に暗殺された。

また父がこの医学院長の職にあった時、ある台湾人の弁護士が父に会いに来て、「あなたも暗殺対象のリストに載っているから早く隠れた方がいい」と知らせてくれた。

父は「了解」と承諾して、2階にあった院長室から何気なく外をながめていると、父に危機を知らせにきたその弁護士が、今まさに中国兵に捕らえられ、連行される場面だった。

これが、父がその弁護士の姿を見た最後となり、彼も後に暗殺されたことが判明した。

数年前日本に行ったとき、旧姓、邱さんという台湾人の医師が、私の父・聡明が彼の父君に一時期かくまわれていた、と教えてくれた。また米国ではその邱さんの弟君と一度お目にかかったこともある。

私は父・聡明が二二八事件の混乱のなかで一時期身を隠したことは知っていたが、その場所がどこであるかまでは聞かされていない。いま私は米国在住なので、今度その弟君の方にまた会うことができたなら、父は一体どこでかくまわれていたのか、さらに詳しく知りたいと願っている。

 

逮捕の危機は私や父にも

さてこの二二八事件の際、中国兵と実際に戦闘を繰り広げたのは日本統治時代の台湾で台湾共産党(日本共産党台湾民族本部)を設立し、活動初期には台湾独立を支持、戦後は中国共産党の指導を受けるようになっていた謝雪紅らであった。

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