2023-01-19 流台湾

明石元二郎―台湾に墓が築かれた唯一の総督―

注目ポイント

林森北路歓楽街の入り口ともいえる公園に小さな鳥居が2基ある。そこにはかつて第7代台湾総督明石元二郎の墓があった。明石総督は台湾人の権益を保護する政策を実施したことでも知られる。今は北海岸の三芝にある福音山基督教墓地に埋葬されている。周りは緑豊かな山に囲まれ、近くにはテレサ・テンの墓もある。今回は明石総督の足跡を追ってみた。

台湾総督

旧正月用の買い出しで筆者は林森北路の欣欣デパートへ行った。その時、隣接する公園に鳥居があるのを見かけた。それが第7代台湾総督明石元二郎の墓地跡であった。

林森公園の鳥居

1895年から1945年までの日本統治時代、台湾には全部で19人の総督がいた。海軍大臣になった初代総督樺山資紀を始め、のちの総理大臣桂太郎、学習院院長で陸軍中将だった乃木希典、桂内閣で文部・内務・陸軍大臣を務めた陸軍大将児玉源太郎、総督府総務長官を務めた後藤新平などそうそうたる顔ぶれで、日本政府が台湾統治に相当力を入れていたことがわかる。初期のころは現地民の抵抗運動を抑える必要から軍事力を背景に統治していたが、徐々に民政に移行し第6代総督安東貞美、第7代総督明石元二郎のころから現地居住民の権益を保護する政策が多く打ち出され、安定した統治が始まったのである。

1945年10月25日、台北公会堂(現在の中山堂)で最後の総督安藤利吉と陳儀行政長官との間で降伏文書が交わされ、半世紀にわたった日本統治が終わった。

ちなみに10月25日はかつて「光復節」と呼ばれ2000年までは国定祝日だった。

 

明石元二郎

明石元二郎は1864年(元治元年)に福岡藩で生まれた。1864年というと、あの「池田屋事件」があった年である。陸軍軍人を経て1918年に第7代台湾総督に就任、陸軍大将に昇進する。軍政から民政に移行した総督府は台湾人の権益保護に力を入れた。

明石総督がまずやったことは、水力発電を推進するために「台湾電力」を設立、輸送力不足や貨物積み残し問題を解決するために台湾中部の鉄道に新たに海岸線を敷設した。そのほかに法を改正して台湾人にも台北帝国大学進学の道を開いたり、当時台湾最大級の銀行、華南銀行を設立したりした。また嘉南平原の干ばつ・洪水対策として八田与一が計画した嘉南大圳を承認し、予算を捻出した。

 

余は死して台民の鎮護となる

1919年、公務のために一時帰国する船上で病気になり、郷里の福岡で死去した。総督退任後は総理大臣かと期待されていたが、志半ばで病に斃れた。満55歳だった。明石元二郎の遺骸はわざわざ福岡から台湾に移され三橋町日本人墓地(現在の林森公園)に埋葬された。これは本人の意思であった。墓前には鳥居が建てられた。台湾でまだまだやりたいこと、やらなければならないことを多く残してこの世を去った明石にとって千載の恨事となった。「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」と遺言にあった。本人の意思によって台湾に墓が築かれた唯一の総督である。台湾総督在任期間は1年5か月であった。

三芝にある明石の墓

林森北路と林森公園

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