注目ポイント
日清戦争(1894~95)の結果、下関条約によって台湾は1945年まで約半世紀の間、大日本帝国の統治下に置かれた。台湾医学の先駆者となった杜聡明氏の三男として生まれ、戦後、米国で世界的な毒性学の権威となり、日本の大事件解決にも協力した杜祖健氏が、台湾から日の丸が去ったころを振り返り、台湾人としての心情を記録する。
このとき私は建国中学高等部の生徒であったが、状況に詳しい同級生が「台北の街は混乱しきっている」と教えてくれた。不謹慎ながら興味をもった私は、授業が終わった後、友人と二人して台北市街への見物に行った。
歩いて行政長官公署の近くに来てみると。建物の周囲は護衛の兵隊が囲んでおり一般人は近寄れないようになっていた。
いきなり目に飛び込んできた光景はすぐ近くで台湾人が石で外省人を殴っている姿だった。長官公署を護衛する兵隊が、殴られている外省人を助けに来た。殴っている台湾人は兵隊がそばにきたことに気がつかなかった。やがて兵隊がピストルをその台湾人に向けて撃ったが、音がしなかった。
兵隊は「打不出来」(弾がでなかった)とつぶやいた。この台湾人は本当に運が良かった。
その後私は北門のそばまで来た。その近くには鉄道警察の建物があり、台湾人群衆がこれを襲撃しようとしていた。

建物の中から「ポン、ポン」とピストルの音が聞こえてくる。やがて中国兵を満載したトラックが北門の所に到着した。周囲を台湾人が囲んでいたが、当初はトラックの中国兵とは穏やかに話をしていた。
しかし、いきなり「ダダダー」という音が耳をつんざき、トラック車上の機関銃が周囲の群衆に向かって発砲し始めた。私は台北一中の軍事訓練が身についていたので即座に地面に伏せた。
まわりの人はキャーキャーと泣き叫びながら走りまわっていた。
そうこうするうちに銃声がやんだ。私は中国兵がトラックから降りてきて周囲に倒れている人を銃剣でとどめを刺しに来たのかと心配しつつも、怖くて身動きができなかった。
やがてトラックが動き出したことがエンジン音でわかった。
今度は道路に伏せている自分がひき殺されるのではないかと心配した。しかしトラックはそのまま去って行ったので、ようやく周りを見た。
私の両側にいる2人が撃たれ、血が流して倒れており、意識が無いようであった。おそらく機関銃の掃射によって射殺されたのだと思っている。私の命は機関銃の弾のポンポンというその寸隙にあったのだ。運が良かったとしかいえない。これこそ天祐だと思った。
天祐はめったに起きるものではないだろうが、奇しくも私は天の計らいでもあったかのように、その恩恵にあずかったのだと思った。
その後暴動は遼原の火のごとく台湾全島に広がり、陳儀台湾省行政長官は台湾人による二二八事件の処理委員会を各地で発足させた。
台湾人は、自分たちの手による自治台湾の実現を願った。ただし、当時は台湾が中国から分離し、独立するというような願いはなかった。