注目ポイント
日清戦争(1894~95)の結果、下関条約によって台湾は1945年まで約半世紀の間、大日本帝国の統治下に置かれた。台湾医学の先駆者となった杜聡明氏の三男として生まれ、戦後、米国で世界的な毒性学の権威となり、日本の大事件解決にも協力した杜祖健氏が、台湾から日の丸が去ったころを振り返り、台湾人としての心情を記録する。
台北一中生200人のうち台湾人は私を含めて2人だけである。だから私は日本人生徒に殺されるのではないかと心配したが、その晩は事もなく済んでホッとした。
8月の末にわれわれ勤労学徒はみな一か所に集められ、現場の監督にあたっていた日本陸軍中将が勤労学徒隊の解散の式辞をのべた。彼は第1次世界大戦が終わった時はドイツに武官として駐在していたという。この時のドイツは戦時よりも戦後の方が苦しかった。それゆえに「日本も同じようになるだろうから、諸君は将来の日本復興 のため万難を覚悟しろ」と呼び掛けていたのが印象的だった。
終戦直後の台湾の変化
台湾が中国に復帰するというニュースは素早く全島に達した。市街ではいたる所「光復台湾、復帰中国」「歓迎祖国回来」などと横断幕が掲げられ、“祖国”に復帰したという喜びに溢れていた。台北の街は一気に親中反日の空気にあふれ、反日感情が爆発したので、多くの台湾人が日本警察の派出所を襲い、警察官をなぐる様子がみられた。日本の警察官の奥さんが泣き叫びながら、「やめてください」と懇願していた。
私は台北一中の学生だったので、日本人生徒と一緒に勉強をしていた。あるとき、黄さんという一学年上の先輩に呼び出され、「日本人と一緒に勉強してはいけない。台湾人は永楽国民学校を借り、台湾人学生はそこに集まって勉強するのだ」と告げられた。

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台湾人は中国語(北京官話)を知らないので、伝統的な中国の初学者用の学習書「三字経」を勉強して「これが中国語か」と思ったりしていた。
一中、三中、四中の台湾人学生が集まってが全部で50人ばかりであった。日本時代、台湾で台湾人が中学校に入学するには、植民政策によって人数が制限されていたためであった。そのため多くの優秀かつ経済的に恵まれた台湾人は、日本本土に行って教育を受けるようになった。日本本土は台湾とは違い、台湾総督府の植民政策による制限がなかったためであった。私は幼稚園、小学校、中学校で一緒だった日本人の友人、平田精甫(せいすけ)君と一緒にいたので、よく台湾人生徒に止められ「何で日本語をしゃべるのか」と注意された。
やがて“祖国”の軍隊が台湾にやってきた。傘を差し、ボロをまとい、わらじ履きで天秤棒を担いだ“祖国”の軍隊の貧しさに多くの台湾人が驚いた。
結局“祖国”からは多数の中国人(外省人)がやってきたが、初めころこそみな歓迎していたものの、やがて彼らの貪欲さに閉口していった。