注目ポイント
日清戦争(1894~95)の結果、下関条約によって台湾は1945年まで約半世紀の間、大日本帝国の統治下に置かれた。台湾医学の先駆者となった杜聡明氏の三男として生まれ、戦後、米国で世界的な毒性学の権威となり、日本の大事件解決にも協力した杜祖健氏が、台湾から日の丸が去ったころを振り返り、台湾人としての心情を記録する。
私は日本の「学徒兵」だった
1945(昭和20)年4月、新学期を迎え私は旧制台北第一中学の3年生になった。しかし戦況は悪化し、毎日のように米軍機による空襲があるので勉強は満足にできなかった。その年の6月、私は台北一中からの書留で「学徒兵」として動員されるとの通知をうけた。このとき私は疎開先の台北北西郊・北投にいた。
当時の日本は、台湾こそが米軍の次なる侵攻目標だと推測していた。
私ども一中生も日常的に勤労奉仕に駆り出されていたのだが、その場合の現場の監督はあくまで一中の教員だった。だが戦況が悪化し、情勢も緊迫してくると、中学校2年生以上は学校単位で軍に動員されるようになったのである。
結局私たち一中生は台湾軍築城部隊第1大隊第2中隊に所属することになった。小隊長は陸軍少尉でその下に下士官がおり、分隊長は上等兵。完全に台北一中とは関係を絶たれ、軍の一員、すなわち「学徒兵」となったのだ。
ついでに言えば台北四中に通っていたすぐ上の兄も同様に軍に動員され、台北帝国大学(現台湾大学)医学專門部の学生だった一番上の兄も衛生兵として応召した。

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話を戻すが、この当時母と父は台北南西郊外の大渓に疎開していたので、動員の通知を受けた私は北投の疎開先の家に置手紙を残した。そこには動員でいつ命がどうなるか知れないが、「長い間の親の愛顧に感謝します」などと書いた。
台湾北部において軍は、米軍が台北北西郊・淡水の対岸の八里から上陸して台北に侵攻すると見ていた。それで日本軍は台北で決戦する準備として、水源地がある付近の山を徹底的に要塞化した。
われわれ一中の生徒約200人はそこの道路整備をする役割を与えられ、毎日それに従事した。台北の街は定期的ともいえる頻度で空襲による爆撃を受け、轟轟(ごうごう)たる爆弾の破裂音は水源地にいる私たちの耳にも届いた。ある空襲の際などは、部隊の最高司令官にあたる陸軍中将と同じ洞穴(要塞の一部だった)に避難したこともある。ただし、私たちの居場所は台北の中心部からは随分と離れていたので安心していた。
同年7月末には慰問団の来訪もあり、団員の歌手が「勘太郎月夜唄」と「上海の花売り娘」をうたってくれた。そのメロディーは、どういうわけだか、いつまでも私の耳に残った。
終戦の日と、その晩の恐怖
「今こそ撃てと宣戦の大詔に勇むつわものが…」
1945年8月15日、われわれは平常通り軍歌を歌いながら道路普請の作業場に行った。昼過ぎだったと記憶しているが、同じ現場で作業にあたっていた日本人一中生が玉音放送による終戦の事実を告げた。われわれは作業を止めて宿舎に戻った。その晩、日本人一中生らは台湾人が謀反を起こすかもしれないといい、みなで寝ずに警戒にあたった。