注目ポイント
1995年、江沢民は両岸関係の発展と中国の平和的統一の促進に関する8つの提案を打ち出し、平和的統一と「一国二制度」の理念を実現する方法を明示した。 2000年の台湾総統選挙前、両岸問題について問われた江氏は曹植の「豆を煮るに萁を燃やす」を暗誦していた。
中国の公式メディア新華社は先に、中国共産党の元指導者、江沢民氏が11月30日12時13分、白血病と多臓器不全を患い、上海で96歳の生涯を閉じたと報じた。
江氏は10月の第20回共産党大会と昨年の党創立100周年記念式典を体調不良を理由に欠席した。3年以上も公の場に姿を見せなかったとされ、2019年10月1日に天安門での、共産党創立70周年の祝典を見守ったのが最後の公の場となったとされる。
1926年8月17日、江蘇省揚州市に生まれた江氏は、上海交通大学電気工学科を卒業。 1946年、中国で国民党と共産党が戦争をした際、江氏は中国共産党に入ることを選んだ。そして1989年に中国共産党中央委員会書記に選出された(13年間、党書記を勤めた)。1993年に中国国家主席に当選し、党・政府・軍を完全に掌握して中国大陸の第3代の指導者となり、2002年以降は徐々に胡錦濤氏に譲位。 2005年3月に中央軍事委員会主席を退任し、引退後はほとんどの時間を上海で過ごしていた。
江氏は、中国共産党中央指導部の第三代の中核であった。 BBCによると、江氏は毛沢東の共産主義革命に参加しなかった最初の中国人指導者で、1989年6月4日、当時のトップリーダーである鄧小平は、天安門広場で抗議する学生たちに流血の弾圧を命じた。当時、政治改革を主張した中国共産党総書記の趙紫陽は、鄧小平の指示に反目したため辞任を余儀なくされた。それにより上海市委員会書記だった江氏は、鄧小平に選ばれ中国共産党の名目上の最高指導者になった。

中国を世界の舞台へと導く
江氏が総書記に就任した時代、中国は途上国から世界一の経済成長国へと変貌を遂げ、欧米との関係も劇的に改善された。 天安門事件による中米関係の停滞を脱し、中国の世界貿易機関(WTO)加盟を主導し、市場改革を深化させ、「中国スピード」経済離陸を開始、1997年には香港とマカオの主権が西側から中国共産党政府に移譲された。
江氏の前任者である鄧小平は、かつて「中国は大国であると同時に小国であり、頭を隠して目立たないことを標榜している」と言った。 鄧小平は海外にほとんど出ず、米ソ冷戦の争いに乗じて国際舞台で目立たないようにし、急速な経済発展と総合的な国力強化に力を注いだ。 しかし、冷戦が終結すると、欧米は台頭する中国に注目するようになり、江氏の在任中は中国のグローバル化の黄金時代となった。
しかし、1999年に宗教団体「法輪功」を厳しく弾圧し、台湾に対する強硬姿勢から第3次台湾海峡危機が勃発するなど、江氏は批判されることもあった。 また、中国の政治体制改革に無関心なため、共産党がますます権威主義的になっているとの批判もあった。