2022-11-19 ライフ

夜明け前に取引される新鮮な海産物ーー南部の東港魚市場と北部の基隆崁仔頂魚市場

注目ポイント

「魚」は「余」と同じ発音であるため、台湾では「魚」は豊かな暮らしを象徴する食材だ。お祝いの席には尾頭付きが欠かせず、年配者は全部食べ切らないようにと注意する。少し余らせることが「年々有余」を意味するからだ。 四方を海に囲まれた台湾の近海は、世界第二の海流である黒潮が通り、天然の漁場が形成されている。漁業資源は豊富で、魚市場へ行けばEPAやDHAなどの栄養素を持ち帰ることができる。

文・鄧慧純 写真・林格立 翻訳・山口 雪菜

東港の鮮魚市場。一面の漁獲は大漁を表している。
漁船が帰港すると、注意深く魚を吊るして水揚げする。
屏東——東港魚市場
競り人が素早く早口で値をつけていくと、暗黙の了解の下、視線や指の形で取引が成立していく。

マグロでにぎわう小さな港町
「かつて東港魚市が扱った最初のクロマグロは私が捕ったものです」80歳を越えた老船長の蘇進は、1971年のクロマグロとの格闘を語ってくれた。「マグロを狙って海に出て、首尾よく仕留めたのですが、獲物があまりにも大きく、釣り糸が細すぎて力を入れて引けば切れてしまいます。そこで1~2時間も格闘し、マグロの体力が弱ったところで、ようやく引き上げたのです」

当時、東港の魚はまだ輸出されておらず、蘇進によると、当時の林徳和‧理事長らが奔走し、マグロとカジキの日本への輸出が始まり、クロマグロも日本へ輸出されるようになった。

「日木水巷」の創設者で東港の文化や歴史を研究する蘇煌文によると、東港は清の時代に貿易港として栄えたが、日本植民地時代の後期、近くの大鵬湾が水上空港基地となり、東港も軍事要地とされた。後の1970年代になり、政府が十大建設として地方へ資金を投じたことで、東港は漁業と海産物の輸出で栄え始めたのである。

蘇進は1956年に小学校を卒業するとすぐに船に乗り、20歳余りで船長になった。当時は近海の漁業資源も豊かで、黙っていてもたくさん魚が捕れたという。だが、まじめな船長は、どの季節にどの漁場でどんな魚が捕れ、どのような漁具を使うべきかすべて知っている。蘇進が捕ってくるマグロはほかの船のものより大きく高値が付き、暮らしも次第に豊かになっていった。蘇進は、漁師たちがしだいに貧困を抜け出し、暮らしが楽になっていった過程を話してくれた。

興味深いことに、東港の有名な王船祭からも、この歴史が裏付けられる。昔から王船祭の費用は地元住民が出していて、かつて王船は紙で作られていた。「最初に木造の王船が作られたのは1976年のことで、漁師たちの暮らしに余裕が出始めた時期と一致します」と蘇煌文は言う。

魚が豊富に捕れ、漁師は豊かになり、漁船も大きくなっていった。それにつれて造船や船のメンテナンス、製氷、海産物取引などの周辺産業も発達した。2001年、屏東県政府が開催した「屏東クロマグロ文化観光フェスティバル」は、漁業と観光とブランドを融合したフェスティバルで、東港にさらなる活気をもたらした。

東港でよい話として伝わっているのは、漁業者が設立したサクラエビ生産販売班だ。彼らは自主的に休漁し、時間と量を決めて漁を行ない、海洋資源の保全に努めている。現在は、漁船115隻のみに許可が与えられ、毎年11月から5月末までのみのサクラエビ漁を行なっている。サクラエビの保護に努めることで、市場価格は緩やかに上昇し、人と海とのウィンウィンとサステナビリティが実現している。

トロール網漁の市場は午前2時に取引を開始し、空が白み始める頃にようやく終了する。
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