2022-10-30 ライフ

庶民に愛される伝統の米食――大根餅

注目ポイント

縁起が良いとされる菜頭粿(大根餅。菜頭粿は台湾語)は、旧正月の食卓には欠かせないおめでたい料理で、米粉を蒸す香りは多くの人の幼いころの記憶とつながっている。しかし、この白くて素朴な味わいの軽食が、実は明の鄭氏政権最後の王爺を追悼して作られ、それから代々受け継がれてきたことを知る人は少ない。 今日でも台湾各地で多くの職人が米を粉に挽き、大根を千切りにするころから大根餅を手作りしている。そのおかげで私たちは大根と米の甘い香りがする大根餅を味わうことができるのである。

文・陳群芳 写真・林格立 翻訳・山口 雪菜

現在の台湾の米は粘り気があり、もっちりしているが、これは日本統治時代に持ち込まれた蓬莱米(ジャポニカ米)で、それより前の明や清の時代の人々は、米粒が細長く、やや硬い在来米(インディカ米)を食べていた。『慢食府城』や『小吃研究所』などの著者がある作家の王浩一によると、在来米は明の末期に台湾に持ち込まれ、蓬莱米が導入されるまで約290年にわたって台湾の主食だった。「ですから、明や清の時代から伝わる米を原料とした蒸し餅は、大根餅も碗粿も在来米で作られていたのです」と言う。

林貞粿行とともに粿仔街の変化を見守ってきた木の蒸篭は、今も日々使われている。

台湾の米食の歴史

王浩一によると、求める食感の違いから新米を使うものもあれば、9か月以上置いた古米を使うものもある。大根餅や蒸した肉圓、鼎辺趖の場合は必ず古米を使うのである。

大根餅は1年以上置いた古米を使う。まず米を水に浸し、挽いて米粉汁にする。大根は皮をむいて千切り器で細く切り、一度ゆでて大根の臭みをとる。続いて大根の千切りと米粉汁を混ぜて型に流し、強火で5~6時間蒸す。米粉汁の水分量や配合、火加減によって出来上がりは違ってくる。

だが、これほど手間のかかる米食文化が、なぜ数百年も受け継がれてきたのだろう。王浩一はその物語を語ってくれた。

明末の鄭氏政権の最後、延平王の鄭克塽は清朝に投降した。当時、台湾にいた明朝末代の王爺である朱術桂はこの消息を聞き、殉国のために自決を決意する。朱術桂は台南の二仁渓以南に広大な農地を有しており、殉国する前にその所有地を耕している農民を集めて土地を彼らに譲渡した。王朝が変わると、人々は朱術桂に感謝し、その命日や誕生日、祝祭日などになると、鄭氏政権の時代に神への供物とされた芋粿(タロイモの蒸し餅)、黒糖粿(黒糖入り蒸し餅)、大根餅などを作り、隠れて朱術桂を祀ったのである。清の統治は213年にわたって続き、これら蒸し餅作りは代々伝わってきた。日本統治時代になると、人々は再び粛清を恐れ、これらの軽食を市場で売るようになり、全台湾の庶民の味となったのである。

大樹の下の素朴な朝食

大根は冬の野菜で、まだ高原野菜がなかった頃は旧正月あたりが旬だった。

だが、近代になって栽培技術や品種改良が発達し、夏でも大根が食べられるようになり、今では台湾でも一年を通して手に入るようになった。雲林県斗六には、二世代にわたって自ら大根を栽培して大根餅を作る「阿牛菜頭粿」がある。毎朝、夜明けとともに大樹の下の鉄板はおいしそうな音を立て始める。店主の頼国正が次々と大根餅をきつね色に焼き上げ、傍らでおかみさんの謝佩君が盛り付けたり、袋に入れたりしている。「焼き目をしっかりつけて。ソースは辛めに」と注文する人がいれば、頼国正はすぐにそれに応じる。しっかり焼き目のついた大根餅に自家製のソースをつけ、豬血湯(固めた豚の血の入ったスープ)か味噌汁を合わせれば、栄養満点の朝食だ。

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