注目ポイント
音楽家でアジアンポップカルチャー研究も行う菅原慎一さんが、台湾を感じられる選りすぐりのカセットテープを紹介する月イチ連載。ロサンゼルスを拠点にするEmma Palmさんのソロプロジェクト、No Translationの「Inner Distance」は台湾でリリースされた作品ではないものの、作品に込められた想いやユニークな制作方法から、紛れもなく「台湾がきこえてくる」といいます。
今回ご紹介するのは、No Translationの「Inner Distance」です。これまでこの連載では、台湾でリリースされた作品についてお話ししてきましたが、今回はちょっと違います。このカセットテープは海外からリリースされたものです。しかし、連載のタイトルの通り紛れもなく「台湾がきこえてくる」のです。
No Translationは、ロサンゼルスを拠点に活動する音楽家でマルチメディア・アーティストのEmma Palmさんのソロ・プロジェクト。遠く離れた台湾の地で生活をしている母親に向けて作られたというこのカセットは、ユニークな制作方法で作られています。
カエルの大合唱や、夜の虫の鳴く声など、Emmaさんのお母さんが台湾で日々生活をしながら、心が動いた瞬間にフィールドレコーディングした音が使われています。Emmaさんのお母さんは、いくつかの精神的な障害を患っていて、パンデミックの前は2人の関係は疎遠だったそうです。しかし電話越しに近況報告をしながらお互いの身の回りで起こった「音ごと」を交換し合ううちに、心の距離はどんどん縮まっていきました。Emmaさんはお母さんへの愛情を、このカセットテープ作品で表現しました。
リリース元は、Pure Person PressというEmmaさんと同じ台湾系アメリカ人のAngela Linさんが立ち上げたレーベルです。Angelaさんはアメリカで生まれ育ったアーティストで、とくに音楽への造詣が深い人でしたが、ある日ホウ・シャオシェン監督の映画「ミレニアム・マンボ」(原題:千禧曼波)を観て、伝説のパイオニア林強(Lim Giong)の音楽に出会い、稲妻が落ちるような衝撃を受けたそうです。そして台湾の音楽を世界へ発信するために、レーベルを立ち上げました。このように、台湾にいなくとも、EmmaさんやAngelaさんのように、台湾への想いや声を届けてくれる人がたくさんいるんですね。

作品の話へ戻りますが、「Inner Distance」は僕が近年出会ったアンビエント・ミュージックの中でベスト3に入るくらい素晴らしい作品だと思います。アーティストのパーソナルな事情が、非常に強い意思でサウンドに置き換わっているにもかかわらず、そこから立ちのぼる情感は、とても穏やかで匿名性の強いものだからです。コラージュという手法が持つ力が最大限に発揮されている、と言ってもいいかもしれません。台湾とアメリカ。母と娘。離れた2つの場所で鳴っていた音が、邂逅していくにつれて発生した環境音楽は、この世界のどこにいても等しく僕たちの空気を静かに振動させます。Emmaさんがなぜ「No Translation」と名乗っているか、そんなことも自然と伝わってくるような気がします。
ちなみにこのカセット、限定50コピーでした。おそらく、一つ一つ丁寧に手作りしているんだと思います。たまたま手に入れられた僕はとてもラッキーです。ずっと大切にします。