注目ポイント
高雄の加工輸出区(EPZ、Export Processing Zone、輸出加工区)、現在の「前鎮科技産業園区」の製品陳列室。中南米地域の友好国から訪れた来賓が、展示された過去の製品を指さして「ああ、このポータブルステレオは、子供の頃、私も1台持っていましたよ」と声を上げた。これに対して「そうですよ。これは台湾製で、ここから輸出されていったのです」と加工輸出区管理処高雄分処に勤務して20年を超える広報担当の丁世徳が答えた。
当時、最も多かったのは日本企業による投資だった。当時の受託生産や加工は労働集約型で、地域に大量の雇用をもたらし、それが高雄周辺にまで広がり、隣の屏東県から働きにくる人もいた。古い写真には、出勤時間に自転車に乗った人が道を覆いつくす様子が写っている。
日系の台湾亜細亜興業の鄭寧娟・副総経理は、1970年から加工輸出区で働き始めた。最初は経理の仕事から始め、会社の経営企画に加わり、一歩ずつ昇進してきた。その話によると、同社は日本の日東電工とともに加工輸出区に投資して入居した。当初は主に工業用ペーパーパイプを生産して日東電工に供給するという間接輸出の形態だったが、その後は、2度にわたるオイルショックと顧客の資金引き揚げなどの難関を乗り越えてきた。「一時は会社を存続させるために、どんな注文も受けていました」と鄭寧娟は言う。中日音響や日立のテレビの受託生産も行い、会社の規模は最大時には200人近くに達した。ただ近年は産業界の環境が変わって、専門の紙パイプ生産に専念するようになり、現在の社員は十数人だ。人数は減ったが、自動化を進めており、製造工程の7割は自動化されているため、業績は悪くない。こうした産業の盛衰からも、台湾経済の強靭さがうかがえるというものだ。
当時、加工輸出区が外国企業をひきつけたことにより、台湾には技術が残された。例えばアメリカ系の高雄電子やオランダ系のフィリップスなどが台湾のICパッケージング・テスト産業の基礎を築いたと楊伯耕は指摘する。液晶ディスプレー産業としては日系の高雄日立電子とシャープが加工輸出区内に工場を置き、後発だった台湾のパネル産業において多くの技術者を育成することとなったのである。

台湾経済史の縮図
私たちは加工輸出区管理処の黄文谷・元処長を訪ねた。8年と7ヶ月という任期が最も長かった処長である。「純粋におしゃべりをしましょう」と笑いながら話し始めたが、その内容は、まさに台湾経済の発展史そのものだった。
黄文谷は着任当時の加工輸出園区の情景を思い出す。当時は繊維や既製服、製靴など労働集約型の産業の多くはすでに海外に移転した後で、一部の工場はあまり使用されておらず、加工輸出区も設立から30年がたっていた。「当時は、少しずつ現代的な工場も建ち始めていましたが、全体的には古びていて、転出する企業と残る企業に別れ、まさに転換期を迎えていました」と言う。
企業が転出すると「根こそぎ抜かれる」ような状態だったと黄文谷は形容する。サプライチェーン全体が断たれ、従来のクラスター効果も瓦解し、一度はもうダメかと思ったそうだ。だが、見方を変えた。「根を抜かれるのも一つの契機です。大変ではありますが、転換を始められるのですから」と言う。