2022-10-07 観光

日本人の名前刻んだ碑文残す橋 8年間の通行止め経て架け替え 今月末に供用再開へ/台湾

注目ポイント

老朽化のため2014年から通行が禁止されていた東部・台東県海端郷霧鹿峡谷にあるつり橋「天龍吊橋」の架け替え工事が進み、今月末にも供用が再開される見込みとなった。

10月末に供用が開始される予定の4代目「天龍吊橋」

(台東中央社)老朽化のため2014年から通行が禁止されていた東部・台東県海端郷霧鹿峡谷にあるつり橋「天龍吊橋」の架け替え工事が進み、今月末にも供用が再開される見込みとなった。たもとには日本人の名が刻まれた記念碑が残されており、この橋が持つ長い歴史を今に伝えている。

山の中の集落、利稲村へとつながるこのつり橋はこれまでに4度架け替えられているが、最も古い橋は日本統治時代の1929(昭和4)年に建設された。記念碑に刻まれた日本人の名はこの時の「工事人員」とされる。

その中には戦後間もない1945年9月、戦時中日本軍に捕らえられた連合軍の捕虜を乗せ台東の山地に墜落したB24の捜索のために入山し、その後暴風雨により遭難して命を落とした救助隊の日本人隊員、城戸八十八の名前もある。

また日本時代にはこの地に赴任した日本人警察官の新妻が橋の揺れや眼下の急流におののいて泣き喚き、最終的に離婚して内地に戻ったことから、「離婚橋」と名付けられたという言い伝えも残る。

車は通行できないが、幹線道路の南横公路が土砂災害などで通行止めとなった際には外部との連絡や物資を輸送する唯一の緊急路として住民を支え、この地域に暮らす台湾原住民(先住民)ブヌン族の人々は「命の道」と見なしていた。

つり橋のそばにある宿泊施設「天龍飯店」の張哲祥主任は、建設当時の日本人警察官が現場を視察し、雲や霧が立ち込める峡谷を見て「天龍」と名付けたと話す。宿泊施設の名称もこのつり橋に由来するものだ。

供用再開に向けては多くの人に来訪を呼びかけ、100年近い歴史を感じてほしいと語った。

(盧太城/編集:齊藤啓介)

日本統治時代に建設された初代「天龍吊橋」=海端郷公式サイトから
3代目「天龍吊橋」を渡る国軍兵士ら=2011年8月撮影

 

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