2022-10-02 観光

台湾バイク産業の発展の裏には日本企業がいた!台湾バイクの歴史と変わる台湾バイク市場

© Photo Credit: Shutterstock / 達志影像

注目ポイント

10人に6人はバイクを持っているバイク大国の台湾。通勤ラッシュ時に信号待ちのバイクで道路が埋め尽くされる光景は名物とも言えるほどです。そんな台湾におけるバイクの普及には、日本の企業が密接に関わっていました。台湾のバイク産業発展の歴史、そして電動バイクや女性をターゲットにしたバイクなど、新たな市場の動きを紹介します。

こんにちは、台湾大好きライター津山です!

台湾を初めて訪れる日本人が必ず驚くこと、それは道路を走るバイクの多さではないでしょうか? 実は、台湾は人口あたりに対するバイク所有台数が世界トップクラスであり、10人に6人はバイクを持っている、というバイク大国です。

バイクの利用率の高さは、台南や台東といった地方だけでなく、便利な公共交通機関がある台北でも同様です。筆者も台北に暮らしていますが、毎朝、出社の時間帯には、大量のバイクが道路を占領する光景を目にします。

もちろん通勤以外でも、学校の送り迎え、買い物、観光などに使用され、バイクは台湾人の日常には欠かせない「足」となっています。

そんな台湾におけるバイクの発展の歴史は、実は日本と深い関わりがあります。

今回の記事では、台湾人の生活に密接に関わるバイクについて、その発展の歴史と日本との関係性、そして最新の台湾バイク市場動向を、まとめてご紹介します!

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台湾バイク産業の発展と日本企業の存在

現在では台湾人の生活に欠かせないバイクですが、1950年頃までは、庶民にとってはなかなか手の届かない高級品でした。

1950年代初め、台湾でバイクを輸入販売していた慶豐という会社が、本田技研工業の代理店として日本のバイクを売り始めましたが、当時は50ccのスクーターの値段が、なんと1万台湾ドルもしました。

当時、毎月の給与平均が500台湾ドル程度の台湾人にとっては、飲まず食わずで20ヶ月貯金してやっと手に入る金額です。

バイクの価格が下がり、一般的に広まるのは、1961年に三陽工業(SYM)が台湾初の二輪車メーカーとして登場してからのことです。しかし当時の台湾には、バイクのエンジンを作る技術がありませんでした。

そこで、エンジンに関して技術提携先に選ばれたのが、先ほどの本田技研工業です!

しかも、台湾を代表する二輪車メーカーである三陽工業(SYM)と光陽工業(KIMCO)は、ライバル企業にもかかわらず、どちらも本田技研工業と協力関係を結んでいました。当初は50ccと125ccのバイクがSYM、90ccのバイクがKIMCOといった形で棲み分けをしていたそうです。

1950年代は、本田技研工業が急速に事業拡大を行い資金繰りが苦しかった時期でもありました。台湾のバイク市場の成長は、日本を代表する本田技研工業という企業の成長を後押ししたとも言えます。

(参考:中華民國機車研究發展安全促進協會 台灣機車史

 

台湾の最新バイク市場と新しいターゲット

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