2022-08-18 ライフ

映画「呪詛」を見て幽霊と精霊の関係を考える霊性と悪は紙一重、物語の立場によって異なる

© 咒 Incantation粉專

注目ポイント

私たちはある時期になると、スピリチュアルな話を欲することがある。 この思考と習慣が、あらゆる霊的な神々=あらゆる悪神=悪意ある神々を生み出す。

 

映画「呪詛」(株式会社牽猴子)を見ても呪われたりはしないのでご安心を。

まず、大黒仏母は悪意ある力であり、映画に従ってマントラを唱え、手印を結び、シンボルを眺めると、この悪意ある力とつながり、悪影響を受けるという説がある。

  • これはでたらめで無責任だ。
  • これはでたらめで無責任だ。
  • これはでたらめで無責任だ。

 (大事なことなので3回言う)


そして、ヒロインの言葉を信じ、それによって「悪意や呪縛から目をそらす」という、まったく誤った前提のもとに成り立っている。 この議論には、さらに誤った無関心で傲慢な根拠がある。悪意を動的な結果ではなく、静的な存在として見てしまうと、結局のところ、この出来事の本質を理解することはできないのだ。

つまり、悪意は本質的なものではなく、育まれたものなのだ。まず誤解し、次にそれを選別し利用し、無関心に扱い、そして何よりも最後に無責任に譲渡しようとするのである。 ここでいう「私たち」とは、観客である私たちではなく、ヒロイン(ある意味、信仰に直面した私たちの代表)のことだ。

だからこの文章は、悪意を解体して、なぜ「私たちはまったく呪われない」のかを明らかにするためのものだ。

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Posted by 咒 Incantation on Wednesday, July 6, 2022


1、悪意の選択:認めよ、あなたも非常に霊的な神を望んでいる

こんな経験はないだろうか?
一組のカップルが相談にきて、あなたのアドバイスを求めてきた。それをあなたは中立な立場でアドバイスをしたが、それがきれいごとだけではなかったとする。いつの間にか2人は仲直りして、2人からその時のアドバイスについて責められ、急に部外者扱いされたりする…。 多くの神々がそれと同じように感じているはずだ。

私は家の中に自分の祈りを書くための壁を設けているのだが、それをちょっとずつ見ていくと、人のために祈ることもある。しかし、よく考えてみると、ほとんどの人の祈りは、ただ数が多いだけで、適切、適正、安全なものはごくわずかであることに気づく。 私は、「どうか私に巨万の富を与えてください。でも、それが危険であるなら忘れてください」と書いている人を見たことがない。

そして、それはあくまでも一般的な状況だ。 映画「與神同行」が言うように、「世の中に悪い人はいない、悪いのは状況だけ」なのだ。 不幸にも最悪の状況に陥ってしまい、神に相談するとき、ほとんどの場合、"できれば...何でも "と言ってしまう。 このような願いは、必ずしも願望とは関係ない、 というようなことが考えられる。

母を元気にするためなら、自分の命がなくなってもいい…こういう例をたくさん見聞きしてきたのだから、なりふり構ってられない。 安全で基本的な神は誰も望んでいない。みんな超霊的な神を望んでいるのだ。 精神性のある神とは、あなたのあらゆる必要性と同じくらい強力で、あなたの破壊と同じくらい強力な神なのだ。

考えてみれば、黒母は悪者なのか? 必ずしもそうではないが、誰にとってかというと、そもそも黒母の力を使って生きてきた人たちにとって、彼女は家族の守り神だった。 ヒロインにしても、深く考えてみれば、黒母は、娘との再会を阻むすべての力、すなわち、邪魔をするソーシャルワーカー、謝パパ、精神科医を排除してきたのである。

明らかに、「トンネルの動画を見たから呪われた」というヒロインの信念は通用しない。 精神科医が「なぜ、あなたと娘さんはこの映画を見たのに、あなたは大丈夫なのですか」と問うように。

私たち人間は、悪魔や霊を、「特定の悪魔は悪意があり、悪いもので、みんなを傷つける」と考えるなど、非常に非文脈的で静的な視点から見る傾向がある。だが、なぜ、この悪魔はこんなことをするのか? 彼にとってのメリットは何なのか?と考えることはほとんどない。

実際、黒母は(後述するように)非常に野心的でない霊であり、皆を呪うつもりも、何かをするつもりも全くないことは明らかである。 それは、自分のルール、家族(陳家)、そして、陳家の伝統に加わりたくないヒロインとその娘も含まれる。

私たちが「黒母は怖い」と思うのは、物語の中で黒母と対立する立場にあるからだ。 黒母は怖い?「 彼女の対戦相手」の立場に立つからこそ怖い。 しかし、彼女に守られているという視点に立てば、話はまったく違ってくる。黒母をとてもスピリチュアルで、とても心強く、家を守ってくれる存在だと感じるかもしれない。

ある神が流れを変えるほどの力を持つとき、私たちはその神について2種類の物語を持つ運命にある。その神に守られている人はその神を霊的と呼び、そうでない人は悪(悪意)と呼び、霊性と悪は物語次第で同じものになるのだ。

認めよう、私たちは皆ある時、突然霊的な神を望むことがある。 このような思考と習慣が、様々な霊性の神々=様々な悪の神々=悪意の神々を生んできたのである。

こうした霊能者の神々の立場になって想像してみると、「おい、お前はどうしても必要な時に俺のところに来て、どんな手を使ってでも目的を達成するのを助けてやったのに、ちゃんとお礼も言ってないくせに、外部の人間に話しかけられたら、俺を邪神だと思って、別の神を探して殴りかかってくる」...この感じ、冒頭に挙げた例に似ているであろう? 


 

2、悪意の使用:ピットブル

宗教家としては、黒母のような神々にシンパシーを感じることが多い。

私の経験では、悪魔はほとんど中立で単純な存在で、生まれつき大きな力を持っていることが多いのだが、教育を受けていないとその力を正しくコントロールする方法を知らないことが多いのだ。 例えば、台湾ではピットブルが子供を殺して噛んだという話があったが、幸いなことに、犬ではなく飼い主のことが議論され、見直されている。

ピットブルは無知であり、攻撃するのが本性であることは誰もが理解しているので、人間が責任を持って教育や世話をする必要がある。 問題は、人々が無意識のうちに、神々を「人間よりも知的な存在」だと思い込んでいることである。 しかし、私たちは、神がピットブルであり、パワフルでありながら、教育や愛情を必要とする存在であることを考えない。

世の中の恵みや黒母の底なしの顔は「欲望」を表していると思うが、大きな欲望や悪意は魔物や神々に備わっているものではなく、人間が養っているものだということを、私たちは見落としがちなのだ。

仏陀は、人間より優れたある種の超能力を除いて、ほとんどの悪魔や神々は人間より知能が低いだけでなく、その人生はしばしば苦しみに満ちていると説いている。 先ほどのピットブルもそうではないだろうか? 人間より強く、攻撃的だが、それはそれとして。

想像してほしい、飼い主が抱きしめても抱きしめても来ず、小さい頃から荒々しく興奮するような肉体を与え、優しく話しかけ、ただ噛めとか犬と戦えとか言っているピットブルを。 このピットブルは、共感も、愛情も、気遣いも感じない。 彼が受け取るのは裸の欲望と攻撃性だけで、彼は生まれつき攻撃的なので、毎回他の犬を打ち負かすのだ。

このピットブルはどんな犬になるだろうか? 孤独や敵意や怒りを抱くが、その感情に教育も満足もされないので、欲望でストレスを発散し、他人の欲望を受け止めないと生きていけないのだろう。

黒母はもちろん、ほとんどの霊魂、「悪霊」はこのピットブルのようなもので、大きな力を持っているが、人間ほど頭脳明晰ではなく、感情や気持ちを使って問題を解決し、理性を使う機会がないのだ。

なぜなら、すべての人間は、理性や愛ではなく、感情や情緒で寄ってたかって餌を与えるからだ。

そう考えると、黒母が本当に「悪意ある強さ」であることがわかるのではないだろうか。 野望を抱いた神でないことは確かで、並の王子や神々も敵わないほど強大な力を持ち、抑えることができない。 しかし、彼女は決して自分のテリトリーを広げようとはしなかった(広げれば、超簡単にできたはずだ)。 彼女は陳一族の家神として山中に隠遁している。

特に他の神々に対しては、彼女が反撃すると吹き飛ばされる代わりに恐怖で背を向けてしまうなど、民神によって彼女の姿が封印され、反撃しようとしないことからもわかるように、優しい性格の持ち主である。 黒母の中心的な関心事は、彼女の感情と怒りであることは明らかだ。 領土を広げようという野心もビジョンもない。これを「強い悪意」と呼べるのだろうか。

それは、彼女の顔にある底なしの穴が、無限の欲望だけでなく、理性や判断力の欠如を表していることからもわかると思う。

"感情 "や "気持ち "を重視する彼女だからこそ、ルールも境界線もなく、一度巨大な力を身につけたら、さらに破壊的な存在になる。 しかし、この「欲望と感情の方向性」は、先ほどのピットブルと同じように、完全に人間が養っているものなのだ。

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Posted by 咒 Incantation on Sunday, May 8, 2022

 

この段落で私が強調したいのは、この点だ。

悪魔は理性的というより感情的であることが多い。

悪魔は理性的というより感情的であることが多い。

悪魔は理性的というより感情的であることが多い。


これは多くの人が知らないことで、実際、悪魔や神々を見るまでもなく、人間や他の動物を見れば、教育や啓蒙を受けていない人間のほとんどが感情的で野蛮であることがわかる。

悟りを開く前は、誰もが無知で感情的であり、それは人間だけでなく、霊や神も同様である。 ポジティブな霊とつながれば、悟りを開いて癒されると思っている人が多いが、ほとんどの霊は上記のように「感情的で無知」でもあるので、そうではないことが多いのだ。

エモーショナルな生き物に何ができるのか? おしゃべりもできるし、不平不満も吐けるし、理性への不満や反知性的な感情も訴えることができる。彼らは、あなたが彼らとつながってこそ、あなたと話ができるのだ。 それを納得した上で、理性や教養を犠牲にして感情に執着するようになれば、それは進化ではなく、退化である。

これは、現代人が精神的、宗教的な問題に直面したときに犯す間違いの一つだと思う。 人間と霊の関係は、人間とピットブルなどの動物の関係と同じように、人間が主体で霊は受動的であることに、人はあまり気づかない。

良い精神の形成には、人間的な教育が必要であり、精神と直接つながり、言われたとおりにするために理性を放棄することはないのだ。 そのような行動は、人間としての理性を放棄して、ピットブルに従うようなものだ。

〈聖典〉には似たような話がたくさんある。 鬼の王、韋駄天、鬼の母など、大勢の鬼が釈迦を訪ねたり、弟子たちの議論を聞いたりするのである。 なぜなら、それは彼らにとって悟りのプロセスであり、知的に進歩し、感情的にならずにすむからだ。

信じている精霊を啓蒙し、言われたことをやるだけでなく、理性を働かせ、愛を与える。 これが、私が考える家内神や神の神への信仰の最も重要な点である。

 

3、無責任なヒロイン

ここまで言って、「悪意」がどこから来るのか、詳細に分析したが、やはり一番気になるのはこの問題だろう。

ヒロインが言うように、映画の中で手印を作ったり、シンボルを眺めたりして呪文を唱えると呪われるのだろうか。

答えは「ノー」だ。 黒母を全く扱えないヒロインを信じるのはちょっと無理がある(でも、この常識や論理の欠如は、いわゆる「魔女」と呼ばれる人たちの特徴でもある。)。

黒母は悪意をアピールしているのだろうか? いや、前述したように、彼女には野心がない。 黒母は悪意のある力なのだろうか? はい(教えられた)。 でも、そこがポイントで、彼女は悪意という力は持っているけれども、それを伝播させようという気はなく、彼女のシンボルを見ただけでは何もできないのだ。

ヒロインはずっと「黒母と接触したから呪われた」と思っていて、彼女からすればそれは事実で、あるとき彼氏と家に来てこの神様を見て、人生が一変してしまった。 ヒロインは、自分をアウトサイダー、通人だと考えてきた。 彼女に降りかかった不幸は、「黒母のシンボルを見た」という事故であった。

これが根本的な誤解で、黒母の立場から見ると、ヒロインは部外者ではなく、私たちの仲間なのだ。 彼女は陳家の嫁で、陳家の伝統によれば、将来、黒母を代行することになる娘を身ごもっている。 わかりやすく言えば、大晦日に夫婦で誰の家に火をつけに行くか、というのと同じような世代間格差である。

黒母は自分が陳家の親であり、ヒロインは陳家の嫁であると信じているが、家のルールを守らないので、無理やり協力させ、ヒロインが自分に逆らうとすべて罰する。

彼女は、黒母を邪神だと思い、自分は何かのきっかけで黒母に呪われたただの通行人だと思っている。 そこで、彼女は呪いに対抗する人々を見つけようとするが、その結果、彼らは皆死んでしまい、黒母の恐ろしさを確認することになる。

陳家について見てみよう。 黒母は陳家に何かしたのか? いいえ、それは違うと思う。 この神様は彼らの家族にとって長い付き合いなので、祭壇を壊され、本当に怒りをぶつけてきたのだ。

ヒロインが娘を王様の師匠のところに連れていって助けてもらおうとすると、黒母がそれを止めるという、ヒロインの娘に対する黒母の悪影響も同じだ。 それは、黒母が自分の痕跡を娘の体に植え付けたからであり、彼が介入すれば、娘に非常に悪い影響を与えることを知っているからだと思う。

実は、彼女たちが黒母に服従することで、その悪影響は終わるのだ。

黒母と接触したら不幸になるなどということはなく、不幸はすべて黒母の邪魔をして計画を狂わせることで彼女の「私に従え、私を破壊せよ」という本能を発動させたのである。

しかし、このシンボルを見ることで、「黒母の影響を受けている可能性があるんだ」と言う人もいるだろう。 黒母が影響を与えるには、コネクションが必要だと思うか? ボランティアのおばさんたち、お寺の銅鑼など、彼らは黒母のシンボルや呪文、手印を見たことがないのではないだろうか?

シンボル、呪文、手印は、ブラックマザーが呪いをかけるかどうかとは関係がないことは明らかだ。

黒母は、家族のルールを守り、それに従わない者を殺したいと思っている。 そして、明らかに陳家の一員であるヒロインが、この関係を無視して、「黒母は怖い」と他人(私たちを含む)を洗脳してしまうのである。

これは、黒母が考えていることだろう。

面白いのは、黒母の立場と女性主人公の立場が「別々に表現されている」点で、この映画が繰り返し強調する「信じるものは見えてくる」と合致していることだ。 次回は、この視点に着目し、「黒母」とヒロインの間に起こることは、実はすべて「嫁姑問題」であると、私は考えていることをお話ししたいと思う。

もちろん、特に霊界とつながるのが好きな人の中には、「この映画を観た後、すごく気持ちが悪くなった」と言う人もいるだろう。 私が言いたいのは、もし私たちが霊界を詮索するのが好きで、合理的な分析よりも感情で判断し、自分を守らなければ、それは大きな虫かごを開けるようなものだということだ。 これは、あらゆる種類の霊やエネルギーが私たちの人生に入ってくる扉を開いているようなものだ。

実際、霊界のメッセージを感じるのが好きな私たちは、どこかのトイレに行っても、この映画を観た後と同じように、邪魔されることに違和感を感じないかもしれない。 悪いことをしたとは思わず、「気持ち」に任せてしまうという悪循環。 だから、違和感を覚えると、その本当の理由を知らずに、自分が気持ちいいと思う気持ちとの接点を探してしまうのだ。

そうしないと、ヒロインのように、問題を解決しようとしても、自分の限界にとらわれ、「感情」で判断し、結局は問題を大きくしてしまうことになるのだ。 これは、「人間ベースの立場」から自由に霊界と交流していると、しばしば起こることだ。 (わかりやすく言えば、邪魔されたことを他人のせいにするのではなく、自分が邪魔されないように自分の問題を解決しなければならない。霊界を詮索するのが好きな人は、単にトラブルを求めているに過ぎない)。

これが仏教の力だと思う。 悟りを開いた存在としての仏陀の知恵から、仏教は通常の精神世界のコミュニケーションやつながりをはるかに超え、人間を超え、すべての生き物の平等という最高の位置まで到達する。 それぞれの人生の心理状態や意味を理解し、最適なWin-Winの解決策を見出す。

前回述べたように、お釈迦さまは他人の赤ん坊を狙う女鬼を押さえつけようとはせず、「心と心を比べる」という真理をお手本にして教えられたのだ。

また、繊細で心が乱れやすい人は、この問題を改善し、霊的な力からの干渉を受けないようにするために、定期的に(できれば毎週)断食を守ることが「非常に効果的」であると、お釈迦様ははっきりと教えているのだ。

 

作者:熊仁謙

 

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