2022-07-05 政治・国際

マーヴェリックのジャケットは語る―日米台の過去と未来-

注目ポイント

Top Gun Maverickの最初の方でトム・クルーズが着るジャケットに日本と台湾の国旗のワッペンが貼ってあった。映画館の観客はそれを見て拍手喝采。数秒しか映っていなかったが、アメリカと極東の当時の関係がうかがえるシーンだ。

≪極東遠征63‐64≫

36年の時を経て、トム・クルーズのトップガンが帰ってきた。5月に台湾で封切られたトップガン続集は、封切から一か月経ってもまだ観客数は多く、戦闘機の迫力ある飛行シーンや、パイロットのリアルな動き、過去から続く因縁のストーリーや回想シーンなど、ワクワク感満載で、非常に多くのことが話題に上ったが、第1集に続いて日台で注目されたのは、やはり何といってもトム・クルーズの着るジャケットの背中のワッペンであろう。ニュースレンズJP編集部6月6日付の記事にもある通り、小さいワッペンで、しかも一瞬しか見えないけど、意味深いシーンを、政治的理由でカットしたり差し替えたりしたことで、却って多くのファンの興味を引いた。それは国連、星条旗、日の丸、青天白日旗のワッペンだ。そしてそのワッペンの一番上に「FAR EAST CRUISE 63-4」の文字が見える。1963年から64年の極東遠征で、米軍第7艦隊が台湾や日本に寄港したのを記念して配られたもので、トム・クルーズ演じる主人公ピート・“マーヴェリック”・ミッチェルの年齢から推察して、このワッペンはおそらくマーヴェリックが父親から譲り受けたものというストーリーであろう。


≪駐台米軍≫

トルーマン大統領は朝鮮戦争の始まった1950年から逐次台湾に軍隊を派遣、米華相互防衛条約に基づいて米軍を駐留させた。最も多かったのは中国と大砲を撃ち合った1958年の八二三砲撃戦で、駐台米国軍人は約2万人、その後、映画の中のワッペンにある1963年から64年は約4千人、66年のベトナム戦争時は約1万人が台湾に駐留した。

1979年、米国は台湾と断交、将校、軍人、家族はすべて引き上げ、陽明山には彼らが住んでいた平屋建ての庭付きハウスだけが残った。

 

≪兵どもが夢の跡≫

駐台米軍は台湾各地に施設を設営した。いま、花博公園がある中山北路にはUDTDC(米華防衛司令部)が、台湾大学管理学院がある公館には空軍司令部が置かれ、陽明山には将校宿舎が建てられた。

陽明山は、今では国家公園となっており、初春には梅が香り立ち、夏は台北市内よりも5度近くも涼しく、冬は数年に一度雪が降る。その陽明山にある中国文化大学の付近に、庭付きで、木造やレンガ造りの平屋建ての家がいくつかある。華岡と呼ばれる地域で、1979年まで米軍人と家族や関係者が住んでいた家である。今は普通の台湾人や文化大学の先生の宿舎になっていたり、洒落たケーキ屋やレストランやリゾートホテルになっていたりする。夏は涼しく、自然豊かで、超好立地の住宅だ。山を下りると、天母の街につく。この街も華岡と同じように、1979年までは多くのアメリカ人が食事をしたり、ショッピングをしたりする異国情緒漂う町であった。店の看板やメニューは英語で書かれており、マスターや店員は流暢な英語で応対し、おいしい西洋料理が楽しめる、“リトルアメリカ”であった。1983年、天母に台北日本人学校が移転して来てから、この街は今ではアメリカ人に代わって多くの日本人が暮らしている。

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