2022-06-21 流台湾

日本語教育発祥の地-台湾初の学校 歴史が眠る芝山巌-

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注目ポイント

日本人が台湾を訪問した時に驚くことの一つとして、年齢性別を問わず、日本語がわかる人が多いということが挙げられる。90歳以上の台湾人が若いころは日本統治時代で、日本語はいわゆる第一国語だった。台湾の日本語教育はいつ、どこで、どのように始まり、また、どんな苦難や歴史があったのだろうか。

≪伊藤博文揮毫の石碑が無造作に横たわる公園≫

台北市の北に「芝山公園」と呼ばれる小高い山がある。この山は木の板でできた散歩道が整備されており、山裾を一周するのも、頂上まで登って降りてくるのもだいたい3~40分くらいで、筆者もミネラルウォーターとタオルを手によく散策に行く。気軽に行ける散歩道なのだが、実はこの山には日台の悲しい歴史が詰まっている。

数十年前、筆者はこの山に初めて行って、その頂上の神社裏にあった長細い石に腰かけて休んでいた。ふと石の表面を見ると、うっすらと「伊藤博文」と刻まれた文字がみえる。2000年に復元されるまで倒れたままになっていた、日本統治時代初期に遭難した6人の教師を祀る石碑であった。

≪日本の台湾統治始まる≫

1895年、日清戦争の結果、台湾の日本統治が始まった。西洋の植民地政策を見てきた日本政府は、初めての植民地を、搾取ではなく、同化政策で統治しようとした。内地法適用、阿片撲滅、戸籍の整備、鉱山開発、鉄道施設など、内地とほぼ同じインフラの整備を行った。初代台湾総督樺山資紀は、「教育こそ最優先すべき」の信念のもと、日本全国から選ばれた優秀な教師7名を台湾に呼び、芝山の神社を借りて日本語普及のための学校を設立した。

≪日本語教育発祥の地≫

台湾統治が始まってすぐ、芝山巌に台湾で最初の日本語教育学校が設立された。芝山巌学堂と名付けられた日本語学校では、当初8人の教師と6人の生徒が寝食を共にしながら勉学に励んだ。その後周囲の住民に徐々に受け入れられ、3か月後には生徒が21人に増えていったが、日本の統治に反対する抗日運動が頻繁に発生するようになり、治安が悪化する。それでも彼らはこの地に残り、台湾人の教育を続けたのである。この学校は、台湾教育発祥の地とか、日本語教育発祥の地とか呼ばれ、日本語教師の聖地となっているが、今では知っている人は少ない。

台湾初のこの学校は、のち、国語学校、八芝蘭公学校と名前を変え、今の士林國小(小学校)になった。士林國小には「台湾教育発祥地」と書かれた石碑があり、校舎の壁には大きく「1895年創立」とある。

≪六氏先生の受難≫

1895年の暮れになると日本統治に反対する抵抗はますます激しくなり、治安は悪化し、心配した周辺住人は先生に避難を勧めたが、「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に殉じる覚悟で住人の勧告を拒み、芝山に残った。翌1896年元旦、能久親王の棺とともに一時帰国した教師2名を除く6名の教師が、抗日ゲリラに襲撃され、殺害された。明治政府は、始まったばかりの台湾統治が躓かないよう抗日ゲリラを匪賊と呼び、一般台湾人との区別を明確にし、殺害に関与したゲリラの捜査・逮捕は大々的にはやらず、むしろ襲撃を受けた6人の教師の葬儀を丁重に行うとともに、台湾統治の強化が行われた。台湾の教育に賭ける6人の教師の犠牲精神は「芝山巌精神」と呼ばれ、人々の間で語り継がれた。遭難した6人の教師は敬意を込めて「六氏先生」と呼ばれた。

事件が起きた年の夏、芝山巌社殿の前に、六氏先生を追悼して、内閣総理大臣伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」が建てられた。

≪エピローグ≫

戦後、蒋介石総統率いる国民党が中国本土から台湾に逃げてきて、台湾から日本色を一掃した。芝山では、伊藤博文の建てた碑や芝山巌神社、六氏先生の墓が破壊され、台湾最初の学校芝山巌学堂の学舎は国民党軍統局副局長記念館として雨農閲覧室となり、それはむしろ抗日運動の成果を紹介する場として芝山巌事件が展示された。

芝山巌事件からちょうど100年たった1995年、士林小学校の卒業生らにより六氏先生の墓が再建され、2000年には学務官僚遭難之碑も復元された。

芝山公園正面の石段を上ると、まず遭難の碑が目に入ってくる。その背後に雨農閲覧室、そして閲覧室を裏に回ると有志によってきれいに建て替えられた六氏先生の墓がある。

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