また、同じ社会主義陣営でも中国とソ連は69年3月、アムール川の支流・ウスリー川沿いの国境線をめぐり交戦。同年8月には新疆ウイグル自治区でも武力衝突が起こり、全面戦争と核戦争にエスカレートしかねない重大な危機に発展していた。
同時に毛沢東の中国は、50年代には推定4000万人の餓死者を出した「大躍進政策」や、60年代半ば始まった「文化大革命」でも数百万人が虐殺され、国家は疲弊。78歳の毛沢東も健康不安を抱えていた。年老いたカルト的指導者にとって、ニクソンとの首脳会談は、対立から和解に転換する最後のチャンスととらえた。
2人が会談したのは北京にある毛沢東の自宅。ワシントン・ポストによると、ニクソンはベトナムや台湾、朝鮮半島について議論しようとしたが、毛沢東は「やっかいな問題」とだけ述べ、「哲学的な話をしよう」と持ち掛けた。
そこでニクソンは、毛沢東の著作などから引用、編集された〝バイブル〟「毛主席語録」に言及し、「国民を動かし、世界を変えた」と称えると、毛沢東は「これらの文章は意味がない。私が書いたことにためになるものはない」と謙遜した。
毛沢東はまた、「私は右翼が好きだ。あなた方はみんな右翼で、共和党は右だと聞く」と意外な発言をすると、ニクソンは「米国では、少なくとも現在、右よりの人間のほうが左翼の言っていることを実行できるということです」と返した。
当初は15分の予定の会談だったが大幅にオーバーし、1時間以上に及んだ。その後、ニクソンは周恩来と5回にわたり会談し、高官らを交えた全体会合を2回と、精力的に会談を重ねた。
米中の和解は米ソ関係にも大きな影響を与え、訪中から3か月後の同年5月、ニクソンは米大統領として初めてソ連を訪問。膠着状態だったSALT1(第一次戦略兵器制限協定)とABM(弾道弾迎撃ミサイル)条約を結ぶことに成功し、米ソ間のデタント(緊張緩和)が進展した。
中国との関係は、ニクソン失脚後も続いた。後任のジェラルド・フォード大統領も訪中した。その後を継いだ民主党のジミー・カーター大統領は1979年1月、米中の国交を樹立。その全ての起点となったのが、ニクソンと毛沢東の握手だった。
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