2022-02-22 政治・国際

世界の夏を奪ったインドネシア・タンボラ山大噴火とは? スメル山噴火から3か月

© Jialiang GaoCC BY SA 3.0

注目ポイント

昨年12月4日、インドネシアで発生したスメル山の噴火により、39人が死亡し4000人以上の住民が避難を強いられた。「万の島からなる国」といわれるインドネシアは、アグン山、シナブン山、クラカタウ山を含む計400の火山があり、これらの山々は近年、たびたび噴火し深刻な数の死傷者を出した。

 


インドネシアの火山噴火の歴史を振り返るとき、1815年の“世界を変えた”タンボラ山大噴火なしに語ることはできない。この噴火は記録が残る中で、人類史上世界最大の噴火であると同時に、地球の気候にも異常を引き起こし、翌1816年は「夏のない年」とも呼ばれている。


1815年4月5日、インドネシアのスンバワ島のタンボラ火山が振動し始め、火砕流が起こった。それは4月10日の夜まで続いたが、その後、再び炎と岩石と火山灰が噴き上がり、火砕流が山の斜面を駆け下りた。そのときの爆発音は、数百マイル離れたジャワ島の兵士が砲撃音を聞いたと勘違いするほど大きかった。


セント・へレンズ山噴火の100倍規模

この噴火により、少なくとも1万1000人の島民が死亡、3万5000以上の家が破壊された。噴火前のタンボラ山の標高は約4300メートルだったが、現在は2851メートルにまで低くなったあげく、直径6000メートルのクレーターも残っている。


タンボラ山の噴火指数(VEI)は「7」にものぼり、この規模の噴火は181年ごろに起きたといわれるニュージーランドのタウポ湖噴火以来初めてであり、1991年のフィリピン、ピナツボ山の噴火より10倍以上大きく、さらには1980年のアメリカ、セント・へレンズ山の噴火より100倍も大きかった。

© NASA Expedition 20


火山学専門家によると、1815年のタンボラ山の噴火は、観測史上最大かつ最も破壊的なものであり、最大150立方キロメートルの火山灰、軽石、岩石、エアロゾル、さらに推定60メガトン(1メガトン=100万トン)の硫黄が大気中に放出された。その結果、太陽光が地表まで届かず、当時の地球の平均気温を3度下げ、その後3年間の気候に異常を引き起こした。


タンボラ山噴火はその後、地球の多くの場所に影響を及ぼした。スミソニアン協会の全地球火山活動プログラムの代表リズ・コットレル氏は「タンボラ山は、地球の裏側の人々をも巻き込んだ」と話し、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校の環境歴史学者ギレン・ダーシー・ウッド氏は『タンボラ:世界を変えた火山爆発』の中で「この災害が世界中の多くの国で、飢餓や病気、社会不安、経済衰退を引き起こした」と記している。

© r Image Science and Analysis Laboratory, NASA


世界のあちこちが「夏のない年」に

タンボラ山噴火の翌1816年、西ヨーロッパと北アメリカ東部の一部では、6月から8月にかけて雪が降り霜がおり、農作物を不作にした。同年のイギリス・ロンドンでは、ヒョウが降り、ニューイングランドで霜や寒波が農作物の生育期を襲い、多くの人が西部の州に移住した。また、急な気温低下によってアジアではモンスーンサイクルが乱れた。インドは大飢饉となりコレラも発生、中国の詩人・季彦陽は「夏の寒波と集中豪雨がいかに農民の稲作を苦しめているか」としたためた。

 

しかし、最も大きな影響を与えられたのは、インドネシアのスンバワ島とその周辺の島々で、噴火後の作物が育たず、食糧不足や病気によって、その後10年間で10万人以上が死亡している。

 

火山噴火の影響は気候だけに留まらず、文学や芸術にまで及んだ、。1816年7月、イギリスの詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(1788~1824年)は小説家のメアリー・シェリー(1797~1851年)や他の文学者の友人と休暇を過ごすためにスイスの邸宅に招待した。当時は夏だったが、異常気象のせいで気温が低い上に多雨で皆室内で過ごしていた。バイロンはそこで皆にホラー小説を書くように勧め、あの有名な「フランケンシュタイン」は、その時メアリー・シェリーによって誕生したのだ。


タンボラ山噴火が招いた異常気象は、当時のヨーロッパの画家たちのキャンバスにも描かれている。ロマン主義の影響を受け、19世紀のヨーロッパの風景は非常に写実的でゲルマン人画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの『虹のかかる山岳風景』(1810年)と『海辺の二人』(1817年)から、タンボラ山噴火前後の空の変化を見てとることが出来る。特に『海辺の二人』は、噴火後のオレンジグレーがかったヨーロッパの空を表している。

© Caspar David Friedrich

© Caspar David Friedrich


1815年の大噴火以降、タンボラ山は現在も依然として活発に火山活動をしており、1880年と1967年には噴火も記録されている。幸いその規模は1815年ほど大きくなかった。火山の噴火が再び人々の命を脅かさないように現在も注意深く観測されている。


一方で、火山灰の下にある悲しみが2004年に再調査された。専門家たちがタンボラ山のガレ場で、約3メートルの火山灰の下に埋もれた村と、大人2人の遺骨を発見したのだ。その後、それがかつてのタンボラ王国の遺跡であることが分かった。この遺跡は西暦79年のヴェスヴィオ山噴火後のポンペイ遺跡と関連があることが分かり、「東のポンペイ」とも呼ばれる。


『タンボラ:世界を変えた火山噴火』作者のギレン・ダーシー・ウッド氏はこうつづっている。2010年にアイスランドのエイヤフィヤトラヨークトル山の噴火で、ヨーロッパの航空経路が寸断され、世界経済に数十億ドルの損失を与えたように、火山の影響は現在までも続いている。タンボラ山から100キロ以内に100万人以上、30キロ以内に10万人以上の人々が今も暮らしており、噴火の影は依然としてインドネシアの人々に迫ろうとしている。そして、災害発生時に軽視されやすいのは、一番被害を受ける貧困層やその周辺の人々であり、その人々の状況には「特に注視すべきである」とウッド氏は警鐘を鳴らしている。

 

原文作者:呉象元
原文責任編集者:杜晉軒
翻訳者:黄群儒
校閱者:TNLJ編集部

 

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