写真家・初沢亜利が東京のコロナ禍の2年間を撮り続けた写真集『東京二〇二〇、二〇二一。」(徳間書店)が話題を呼んでいる。


花見客がシャットアウトされた桜並木に雪が降った瞬間。

人々に希望を与えようと飛んだブルーインパルスより、カラスが大きかった瞬間。

それでも東京オリンピックが開会した瞬間。…
収められた168点の瞬景は、これまでになかった東京の2年間を如実に写している。
初沢は、パリを撮り続ける写真家の長男として、パリに生まれた。幼少期に帰国し、以来、東京都港区在住。上智大学在学中からワークショップで修練し、卒業後はスタジオ勤務を経て写真家として活動を開始した。
東川町賞新人賞、日本写真協会新人賞、さがみはら新人奨励賞を受賞。これまで、バグダッド、北朝鮮、福島、沖縄、香港と、人の魂がせめぎあう場所を撮影し続けてきた。
なぜ、コロナ禍に「東京」を撮ろうと思ったのか。
「パンデミックは世界中で起きていました。よって、それぞれの写真家は自分の街から出られなくなりました。出られないなら出られないで、その場所をとっておくことは自然だと思いました。コロナ禍において、感染防止策は国ごとに方針が異なりました。自助、協助、公助。日本は「自助」からだった。十分な補償を与えず、相互監視、自発性に頼った。結果的に、日本人は見事にお互いにマスク警察化して、監視しあった。これは本当に日本人の特性におもねたわけです。その独特な日本、そしてその首都である東京の姿を撮っておくことは写真家の仕事であると思いました」
もう一つ、2019年に香港のデモを撮影しに行った経験もあった。
「私は香港での自由を求めた民主化運動を2019年の後半に撮影していました。中国による一方的な急速的な支配に対して、それに反抗する香港人への応援の意思もあってシャッターを切り続けました。しかし、そこに居れば居るほど、最終的には香港は香港人が撮るのではという思いにつながった。だから、東京は東京人が撮るということが大切だと思ったのです」
感染への恐れには個人差があり、外へ出て動かねば生きられない人もいれば、閉じこもり、外界との接触を遮断した人もいた。「東京」とはいえ、23区を超えてさまざまな場所で、人間模様に触れることで得た瞬景の数々は、どれも個人の生活へと続く物語を内包している。

「日本はロックダウンをしませんでした。行動規範は個々に委ねられており、それぞれの個人が自分で決めて動く、ということなので、危機意識の程度がバラバラになるのです。行動規範はどこにあったかというと、周囲の目だけでした。それは科学的な感染者数、死亡者数といった数字とは関係がなかった。ゆえに、中途半端な人流となりました。そこには個々の人々の抑えきれない感情や欲望もあったのです」