2022-02-04 ライフ

制服と征服——取り囲むものと取り囲まれるもの—— 上

日本ではここ数年、制服のジェンダーレス化が進んでいる。2016年に文部科学省が教職員向けに「性同一性障害や性的指向・性自認に係る、児童生徒に対するきめ細かな対応等の実施について」の周知資料(注1)を公表して以来、関連する動きがキャンパス内で見られるようになってきたからである。スラックス・キュロット・スカートなどの服装を生徒は思いのままに選べられるようになった学校が増えてきた。ジェンダーにとらわれない着こなしをしたいという生徒の声だけが学校に届いたのではない。動きやすさや寒い季節での保温性などという生徒の声もようやく学校に聞き入れられたのである。

今日では性同一性障害や性的指向・性自認の話題は人権の話として認識されやすいものだが、教育を受けることも日本憲法に保障されている権利である。しかしながら、多くの学校では制服に関する厳しい規定があり、実際には多くの生徒が身体の強い弱いなどそれぞれの状態に合わせた防寒対策を取れずにいる(注2)。校則は守れても寒さにしのげずに体調を崩してしまい、勉強に集中できなくなる(場合によっては体力が落ちて倒れてしまうことも)のは本末転倒だと言わざるを得ない。隣の台湾も生徒の制服着用が常である国としてこのような問題に面しており、しまいには制服の存亡までもが問われていた。制服が台湾でその後、どのような運命を辿ったのか。まずは台湾における制服の歴史と意味づけを知る必要がある。

台湾の制服は日本と深く繋がっていた。日本統治時代の前から台湾では私塾や書院教育が行われていたが、子どもたちは普段着である民族衣装のままで授業を受けていた。西洋的な学校制度は日本政府と共に入ってきたものの、台湾人の抵抗を和らげるために、制服が導入されたのは明治後期になってからである。例えば、当時最も代表的な女学校は日本人向けの台北州立台北第一高等女学校(以下、第一高女と略す)と、台湾人向けの台北州立台北第三高等女学校(以下、第三高女と略す)であった。両校は共に服装を特に制限しなかっため、生徒たちはそれぞれの民族衣装を着けて登校していた。1906年に、まずは第一高女が本島の流れに追随する形で生徒に海老茶色の袴を着用するように命じた。1910年になると、第三高女もそれに見倣い、紫紺色の袴を着用するように奨励しはじめる。この時点では日本人と台湾人生徒は同じ袴を着ていながらも、上はそれぞれの民族衣装を身につけていた。やがて同化政策が進むにつれ、台湾人生徒も日本人生徒も同じ学校に通うようになり、同じ「洋装制服」に袖を通すようになったのである(注3)。

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