―奇跡の始まり―
筆者が初めて台湾に来た1980年代初頭、台湾十大建設がまもなく完成しようとしていた。十大建設とは、蒋経国元総統(蒋介石の長男)によって70年代前半から進められていた6か年計画のことで、桃園国際空港や原子力発電所、中山高速道路などの建設が含まれる。経済に関しては、紡績・アパレルをアジアや中国にシフトし、台湾は電子・電機産業に力を入れ、業績を伸ばしつつあった。1985年のプラザ合意後、世界は好景気に見舞われ、台湾の経済成長率も二桁に伸びた。
1980年代前半の台北は、昭和30年後半から40年代の日本の高度経済成長期のように活気にあふれ、台北の町や人々を最初に見た時、私は一種のノスタルジーを感じた。今思い返せば、その頃の台湾は、経済が押せ押せムードの時期で、どこもエネルギーにあふれ、あちこちで工事が行われていた。筆者が勤めていた日本語学校では日本人教師の時間給は170~200元であったが、2~3年も経たないうちに2倍以上に上がった。鶯歌町(台北の西南にある陶芸で有名な町)の陶芸工場で働く人の月給は8000元くらい。台北市内のバス運賃は冷房車が8元、冷房無しのバスは6元であった。(当時のレートはおよそ1元=6円)
―変わりゆく街―
1987年、38年間続いた戒厳令が解除された。海外で活躍していた台湾の学者や技術者たちが続々と帰国、新竹科学工業園区(新竹サイエンスパーク)の建設も始まり、産業はローテクからハイテクにシフトし、半導体やパソコンなどの製造に軸足を移した。90年代には経済成長率はだいたい年6%で安定し、民間消費、輸出入全てにおいて増加、21世紀に入ると、GDPは3~5%で毎年成長を続け(2007年のリーマンショックによるマイナス成長も一年間で回復)、台湾経済は絶頂期を迎えた。
90年代後半から、筆者の友人・知人のうち何人かは自分で日本語学校を経営する人や、日本語教師として大学に就職する人もいた。日本語教師の時間給は700~1500元くらいに、単純工場労働者の月給は12000元以上、大学の専任教師の月給は60000元くらいにまではね上がった。市内バスは全車両冷房車になり運賃は一律15元。仁愛路や信義路のようにバス路線以外の全車線を一方通行にする都市大改革、1998年には台湾一高い台北101ビルの建設開始(2004年完成)、2001年華西街などの公娼制度廃止、2003年台湾新幹線着工(2007年完成)など、経済面のみならず、庶民生活、街並み、娯楽、文化など、凄まじいスピードで台湾は近代化に邁進し、街の風景は変わっていった。(当時のレートはおよそ1元=3円)